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『刑事』 逮捕から起訴まで、連日12時間以上の強引な取り調べを行い、袴田さんに「自白を強要」した。
■松本 久次郎 警部(捜査班長。取り組ペ回数は最多)
■若手 広夫 警部捕(取り調ペなど捜査に従事)
■住吉 親 警部補(現金入り封筒を送った女を取り調べ)
■松本 義男 巡査部長(自白をとるも公判では不採用)
■森田 政司 巡査部長(血の付点したパジャマを発見〉
・松本久次郎は後に蒲原署長を務め、2002年春に勲五等瑞宝章を受章した。
・松本義男巡査部長も1999年秋に勲六等単光旭日章を受賞している。
・住吉親警部補も2007年春に瑞宝双光章を受賞している。
『検事』 警察の捜査をチェックすべき検事が、刑事と同じく「自白」を強要。公判では、死刑を求刑。
「肩書きは当時」 |
■吉村 英三 静岡地検捜査検事(自白をとる。公判で採用)
■岩成 重義 静岡地裁公判検事(一審で死刑を求刑)
■猪口 民雄 東京高裁公判検事(控訴棄却を主張〉
■竹村 照雄 最高裁公判検事(上告棄却を主張)
・袴田さんの自白をとった吉村検事は、仙台地検検事正まで上
り詰めた。
・竹村照雄検事は、広島高検検事長となった後、2008年春の
叙勲で、勲二等旭日重光章を受賞している。 |
『裁判官』 刑事の違法な取り調べを認めつつ「死刑」とした一審判決を、すべての裁判官が追認した。
「肩書きは、すべて当時。吉村氏の写真は「司法大観」より」
■熊本 典道 一審裁判官(死刑判決文を書く。後に謝罪)
■石見 勝四 一審裁判長(死刑判決を下す)
■横川 敏雄 東京高裁栽判長(控訴棄却)
■宮崎 悟一 最高裁裁判長(上告棄却)
■鈴木 勝利 静岡地裁裁判長(再審請求棄却)
■安廣 文夫 東京高裁裁判長(再審請求即時抗告棄却)
■今井 功 最高栽裁判長(再審請求特別抗告棄却)
・横川敏雄東京高裁栽判長は、後に札幌高裁長官。
・宮崎悟一最高裁裁判長は、判事を退官した後の1996年秋に、勲一等瑞宝章を受賞。
・鈴木勝利静岡地裁裁判長は、東京高裁判事となった。
・安廣文夫東京高裁裁判長は東京高裁部総括判事を努め、中央大学法科大学院教授へ。
・今井功最高栽裁判長は、2011年春に、旭日大授章を受賞、皇居で天皇から直接親授
された。
『その他の裁判官』 熊本典道、一審裁判官以外、誰一人、間違いを認めていないし謝罪もしていない。
■高井吉夫 (一審裁判官・死刑判決)以下、カツコ内は当時の肩書き・出した判決。
■中西武夫、柏井康夫 (東京高裁裁判官・控訴棄却)
■塩野宜慶、塚本重頼、木下忠良、栗本一夫 (最高裁裁判官・上告棄却)
■内山梨枝子、伊東一廣 (静岡地裁裁判官・再審請求棄却〉
■竹花俊徳、小西秀宜 (東京高裁裁判官・再審請求即時抗告棄却)
■古田佑紀、中川了滋、津野修 (最高裁裁判官・再審請求特別抗告兼却) |
「週刊現代」2014年4月12・19日合併号より |
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「殺しても、病気で死んだと報告すればそれまでだ」と脅し、罵声を浴びせこん棒で殴った。午前・午後 晩から11時。引き続いて午前2時ごろまで、交代で蹴ったり殴った。
それが取り調べであった。
「袴田事件とは、1966(昭和41年)6月30日深夜に、静岡県清水市(現静岡市)内の味噌製造会社専務宅で、一家4名が殺害され、放火された強盗殺人・放火事件です。
警察は、内部犯行と決めつけ、同年8月、専務宅裏手にある従業員宿舎に寝泊まりしていた袴田巖さんを逮捕しました。
巖さんは当初から無実を訴えていましたが、毎日12時間から16時間も取調べが続き、トイレもバケツで行うように強制されました。拷問に等しい取調べを受けた末に、犯行を自白させられました」
岡島弁護士はこのように事件の概要を説明する。死刑判決は、どのような経緯で出されたのだろうか。
「公判では、巖さんは無罪を主張しました。自白調書も1通をのぞく44通が任意性なしとされ、裁判の証拠から排除されました。公判の当初、犯行の着衣はパジャマで、そこに返り血と放火用の混合油が付着しているとされていましたが、パジャマの血痕はきわめて微量で、再鑑定ができませんでした。また、混合油の成分の同一性に関する鑑定には、強い疑問が生じていました」
つまり、裁判が始まったころは、確たる物証は存在しなかったわけだ。
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「出火直後、寮にいた」 袴田死刑囚の元同僚証言
1966年に静岡県で勤務先のみそ製造会社の専務一家4人を殺害、放火したとして死刑判決が確定し、第2次再審請求中の袴田巌死刑囚(77)について、同じ社員寮だった同僚2人が事件当時、県警の事情聴取に「サイレンを聞いて部屋を出ると、袴田(死刑囚)が後ろからついてきて、一緒に消火活動をした」と話していたことが18日までの弁護団への取材で分かった。
「事件前日の午後10時半ごろから鎮火が近いころまで袴田死刑囚の姿を見た者はいない」とする確定判決と食い違う一方、袴田死刑囚の「事件当時は部屋で寝ていた。火事を知り(この同僚)2人の後から出て行った」という主張と一致する。
弁護団は「出火直後の午前2時ごろ、部屋にいたことになる。袴田さんの犯行とするには無理がある」として、無罪の証拠の一つとして12月2日に提出する最終意見書に盛り込む。来春にも出される静岡地裁の再審開始の可否判断に影響を与える可能性がある。
弁護団によると、地裁の証拠開示勧告を受け、静岡地検が今年7月に地裁と弁護団に任意提出した関係者の供述調書や捜査報告書計130点の中に2人の調書が含まれていた。
2人の証言は、その後、県警の事情聴取を受けるうちに「袴田(死刑囚)の部屋に声を掛けたが、返事はなかった。(消火作業中は)どこにいたのか知らない」という内容に変遷。弁護団は「捜査員による誘導があったのではないか」としている。
2人の消息について、弁護団は不明としている。2013/11/18 9:54 〔共同通信〕
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1966年6月に静岡県清水市(現静岡市清水区)で起きた一家4人殺害事件で、死刑判決が確定した 袴田巌死刑囚(77)=第2次再審請求中=の凶器購入先とされた刃物店で働き、公判で「袴田死刑囚の顔に見覚えがある」と証言した女性(87)が「本当は見覚えがなかった。思っていることと違うことを証言した」と話していることが23日、共同通信の取材で分かった。
また、女性の長男 高橋国明 さん(64)は、女性が67年7月の静岡地裁での公判に検察側証人として出廷し、帰宅した際に「証言の仕方を教えてくれるんだね」と話していたことも新たに明らかにした。袴田死刑囚弁護団の 村崎修 弁護士は「公判前に捜査機関が証言を誘導した可能性がある」としている。
昨年12月に提出した弁護団の最終意見書には盛り込まれていないが、村崎弁護士は「凶器とされた小刀では事件を実行できないとする弁護団の主張を裏付けている。捜査機関が証拠を 捏造 (ねつぞう) したことを示す重要な証言として裁判所に訴えていきたい」としている。
女性は事件当時、同県沼津市にあった刃物店の店主の妻。現在は病気療養中だが意思疎通は十分でき、高橋さんと一緒に取材に応じた。
一審や控訴審では「捜査員から見せられた顔写真の中に見覚えのある顔があった。事件の2~3カ月前に見たような気がする」などと証言していた。
しかし高橋さんによると、女性は店を訪れた捜査員に数十枚の顔写真を見せられたが、見覚えのある顔はなかった。別の日に捜査員が「犯人がこの店で刃物を買ったと話している」と言い、犯人が書いたものとして手書きの地図を見せた。女性は地理関係が正しかったので「だったら店に来たのだと思う」と答えたという。
女性は92年ごろ、凶器とされた小刀が原形をとどめていたことを知って判決に疑問を持つようになった。高橋さんは「母は自分の証言で有罪になったのではないかと苦しんでいる。この声が裁判所に届いてほしい」と話している。
袴田巌死刑囚(77)の死刑判決が確定した強盗殺人事件で、凶器の木工細工用の「くり小刀」を販売したとされた刃物店の店員として証言台に立った女性(87)は記憶と異なる内容を証言したことを悔やんでいる。長男は「私たちは加害者なのかもしれない」と悩んでいる。
女性の長男 高橋国明さん(64)によると、女性は捜査員に数十枚の顔写真を見せられたが、覚えのある顔はなかった。それでも公判で「見覚えがある顔があった」と証言したのは「この店で買ったと話している」と聞かされ、店までの手書きの地図を見せられたから。捜査員が言うことを疑っていなかったという。
店の名前が報道されると「とんでもないものを売っている」「こんな店があっていいのか」と、まるで自分たちのせいで事件が起きたように言われた。客足も遠のき、「自分たちも被害者」と思うようになった。
女性が死刑判決に疑問を抱くようになったのは、1992年ごろ、凶器のくり小刀がほぼ原形をとどめていたことを知ったからだった。くり小刀とは、木工細工に使われる薄い片刃の小刀。4人を計40カ所以上めった刺しにして、原形をとどめていることはあり得ない。長年、刃物を扱ってきたプロとしての勘だった。
高橋さんによると、刃物店の店主で、4年前に亡くなった父親も「くり小刀では無理だ」とずっと言っていたという。
高橋さんは「母の証言が有罪につながったのかもしれない。私たちは事件の被害者だと思い込んでいたが、ひょっとしたら、加害者だったのかもしれない」と話している。
(共同通信 2014/02/25 11:44) |
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今、袴田被告の喜ぶ姿や捜査の不当性をもっともらしく報道しているマスメディア自身は、当時この事件をどう報道していたのかという点だ。
残念ながら当時のテレビ報道の内容は確認できないため、当時の新聞報道しか把握できていないが、当時の新聞各紙の縮刷版を見ると、ご多分に漏れず1966年の事件当時、新聞各社は、まだ捜査段階から袴田氏を実名で報道し、「血染めのパジャマ」「ジキルとハイド」「異常性格」など、明らかに捜査官からのリークと思われる情報を垂れ流していた。
特に、毎日新聞の突出した暴走ぶりが目についた。
<袴田事件とマスコミ報道>
袴田事件はデタラメな刑事司法と愚劣なマスコミによる共同作業である。
事件(1966年6月30日)発生から49日後、袴田氏が出頭を求められた。
■袴田 巖さんは否認のまま逮捕された翌日8月20日の朝刊には、「なお平然、うそぶく袴田」、「葬儀にも参列、顔色も変えず」、「食事はふだん通り」、「悪魔のような
人間」などという見出しが並んだ。
■さらにマスコミは「袴田巖容疑者は、常人のモノサシでははかりしれない異常性格者」「情操が欠け、一片の 良心も持ち合わせていない」などと書いた全国紙もあった。
<袴田事件とマスコミ>
新聞報道「あの事件の犯人は袴田以外には考えられない」というような論調がものすごく多かった。」朝昼晩、テレビ、ラジオで放送。来た新聞は全部まじめに読む。それなりに有罪のイメージが「ああ、袴田が犯人に違いない」ってイメージができ上がりますよ」
■一審判決は1968年、そのころですらメディアが裁判に影響を与え、裁判官ですら無罪と確信した事件が死刑になっているのである。昭和40年代のメディアの圧力は、何か事件があると朝から晩まで垂れ流し、世論を煽り立てている現在の比ではあるまい。
by 三日坊主日記 |
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1966年6月30日 親子4人殺して放火 遺体に十数カ所刺傷 石油のような油をかけられ、火をつけられたので、四体とも黒焦げだった。もちろん家屋も焼失した。
八月一八日、袴田巌さんが逮捕された。彼は一九日間、無実を主張し続けたが、連日の厳しい取り調べに、モウロウとした状態になり、ついに九月六日、警察の筋書き通りの犯行を自供させられた。
罪名は「住居侵入、強盗殺人、放火」だった。
しかし、この自白を裏付ける物的証拠は何もなかった。警察は、袴田さんを容疑者ときめつける物的証拠を何も発見していなかったのである。
警察の内部文書にも、こう書いてある。
「本件は、被告人の自白を得なければ、真相は握が困難な事件であった」。
則ち話は逆なのである。
警察は、袴田さんに嫌疑をかけ、逮捕する充分な証拠は何一つ発見していなかったのである。
こうなれば捜査官は、無理やり袴田さんの「自白」をとる以外に手はなかった。
一日の取り調べ時間は、平均一二時間。最高は、実に一七時間にのぼった。袴田犯人説は、警察の拷問が作り出した虚構であることは明白だった。
「殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ」、といっておどし、罵声をあびせ棍棒で殴った。そして、連日二人一組になり三人一組のときもあった。午前、午後、晩から一一時、引続いて午前二時まで交替で蹴ったり殴った。それが取調べであった。
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袴田事件は、国際社会で問題となる重大冤罪事件である。
静岡県における刑事司法の威信を地に落としてはならない、ただそれだけのために、元プロボクサー袴田巌氏はデタラメな刑事司法で犯人にでっち上げられた。初めから袴田巌氏ありきであった。
犯人とされた袴田巌氏は44年以上も狭い房に閉じ込められ、いつ亡くなられてもおかしくない高齢である。もはや何を以ってしても償うことはできない。
袴田氏を犯人にでっち上げるのに、司法までが積極的に関わった事実が明らかになっては大変なことになるからである。足利事件とは比べ物にならない国民の強い非難を受けることになる。司法の冤罪を作り出す構造(自民党政権や検察・警察との癒着、三審制が内包する欠陥)の検証を求める声も出てこよう。
でっち上げに関わった者たちは、支援組織や団体の声を馬耳東風と聞き流し、申し入れ書等は目を通すこともなく破り捨ててきたことだろう。
1966年6月30日 朝日東京版夕刊の第一報 親子4人殺して放火 遺体に十数カ所刺傷 強盗? 庭に短刀のサヤ
【清水】30日午前2時ごろ、静岡県清水市横砂六五一ノ一みそ醸造業橋本藤作さん(67)の住宅が全焼、焼け跡から夫婦と子ども2人の死体が発見された。静岡県警、清水署で検視したところ4人とも胸や背中などを刺されており、中庭から短刀のサヤも見つかったので同署は強盗、殺人、放火とみて特別捜査本部を設け、捜査に乗出した。
燃えたのは同家木造平屋建132平方㍍で東隣の国鉄職員杉山新司さん(40)方の2階と反対隣の会社重役小川荘作さん方2階も一部を焼いた。
清水署が同日早朝から静岡県警本部の応援で現場検証をしたところ、表側6畳間から藤作さんの長男藤雄さん(41)の妻ちえ子さん(39)と藤雄さんの長男雅一朗君(14)の2人が、奥の勉強部屋と茶の間の間から次女扶示子さん(17)=静岡英和女学院二年生=さらに奥の裏戸付近から藤雄さんの死体が見つかった。
調べによると、藤雄さんは胸などに十カ所の刺傷があったほか、ちえ子さん、扶示子さん、雅一朗君も胸や背中などに十カ所前後の刺傷があった。解剖の結果、藤雄さんは生活反応がなく、殺されたあと放火されたものと見ている。また橋本さん方の中庭から凶器とみ>られる短刀のサヤが見つかった。
藤作さんは昨年11月からリューマチで同市内の病院に入院中、妻さよさん(61)と藤雄さんの長女昌子さん(19)は東海道線をへだてた離れに寝ていて無事だった。
隣家の杉山さんは「ねぐるしいので気が付いたら煙が2階に入ってきた」といっており、橋本さん方は表の大部分にシャッターがおり、裏も線路に面していて消火作業が思うようにいかなかった。
1966年7月1日
朝日東京版朝刊第二報 顔見知りの犯行か 清水の一家4人殺人放火事件
【清水】静岡県清水市横砂のみそ醸造会社専務、橋本藤雄さん(41)ら4人を殺し放火した事件を調べている清水署特別捜査本部は、30日夜の捜査会議の結果、顔見知りか内部の事情にくわしいものの犯行とみて捜査している。
同捜査本部が犯人は単独で顔見知りとみているのは、4人とも凶器は鋭利な刃物で傷口は同一だったこと、刺し傷が多いのは4人とも必ず殺そうとしていた点で、こうしたことから犯行の動機は恨みとの見方を強めている。
1966年7月5日
朝日東京版朝刊第三報 従業員から事情聞く 清水の一家4人殺人放火事件
静岡県清水署の一家4人刺殺放火事件特別捜査本部は4日午後、清水市横砂「こがね味噌会社」独身寮同社製造工Hさん(30)ら3人から事情を聞いたが、奥之山静岡県警刑事部長は「夕方までの調べでは、事件に直接結びつく疑いは少ない」といっており、同夜11時半帰宅させた。
同日朝、殺された橋本藤雄さんが経営する同みそ醸造販売会社や独身寮を「被疑者不明の捜索令状」で捜索したところ、Hさんの部屋から血のついたパジャマと作業衣が発見され、さらに29日夜10時半以後出火した30日午前2時ごろまでの間、Hさんは「1人で寮の部屋にいた」というが、そのアリバイがないなどの点から3人のうちでは、とくにくわしく事情聴取した。
これに対しHさんは「パジャマの血は消火作業の際、トタン板で左手指を切り、それがついたものだ、パジャマから作業衣に着替えたので、これにも少量ついた」と答えている。
同捜査本部は、血の付着具合からみて事件の際の返り血ではないとみているが、念のためくわしく調べている。
1966年7月5日
朝日東京版夕刊の第四報 血染めの手ぬぐいを調べる 清水の一家4人殺人放火事件
【清水】静岡県清水市の一家4人殺人放火事件を調べている清水署特捜本部は4日朝「こがね味噌」の工場などの捜索で、工場裏の下水路から見つかった血染めの手ぬぐいは犯人が使ったものとみて、割出しのため調べている。
この手ぬぐいははじめ消火作業でけがをした従業員のものではないかとみられていたが、ついている血の量が多すぎることなどから、犯人が返り血を浴びた衣類をこの手ぬぐいでぬぐったともみられ、被害者の血液型と一致するかどうか鑑定している。
袴田事件は、デタラメな刑事司法と愚劣なマスコミによる共同作業である。人格攻撃
事件発生から49日後、袴田氏が出頭を求められ、否認のまま逮捕された翌日8月20日の朝刊には、「なお平然、うそぶく袴田」「葬儀にも参列、顔色も変えず」「食事はふだん通り」「悪魔のような人間」などという見出しが並び、「常人のモノサシでははかりしれない異常性格者」「情操が欠け、一片の良心も持ち合わせていない」などと書いた全国紙もあった。
さらに、「袴田のウソツキは相当なものらしく、雑談中“ボクシング選手当時、マニラに遠征したが、あの頃が懐しい”とさも思い出にふける様子。
ところが、刑事が調べたところ、袴田は一度も海外遠征に出かけたことはなかった。
『話がボクシングにふれると、まるで人が変わったようにしゃべりまくっているが、おそらくは大半がウソだろう』と係官も呆れている」 などと書いた新聞もあった。
だが、記録によると、袴田氏は1961年4月19日、マニラの「リサール・メモリアル・ホール」でフィリピンバンタム級1位の選手と10回戦を戦っている。過去のデータがあるはずの新聞社が、一切確認しようとせず警察の虚偽の発表をそのまま書いたのである。警察と袴田氏とどちらがウソツキであろう。当方は「警察官等不祥事」で“警察の発表はウソばかりであり、全く信用してはならないのです”と書いている。
当時事件を取材した朝日の元記者は2001年11月、自戒を込めて語った。 「今にして思えば、袴田巌の周辺をあたったり、過去を調べたりして悪い話ばかり集めた」
「人権意識も薄かった。冤罪になれば新聞にも責任はある」
この事件を書こうとすると気が重くなる。何から何までデタラメなのである。一体どこから書けばよいのか・・・。このような事件に全く関心のない人でも、相当知能指数の低い人でも、とんでもない話だ、それはおかしいんでないの、とすぐ口に出るほどのデタラメなのである。
火事が発生したのが何時何分ごろであるから、何時何分ごろから何時何分ごろまでに犯行が行われねばならない、という思考なのである。その時間に火をつけねばならぬ理由はない、という視点が欠けている。つまり袴田氏が犯人であれば、火をつけるのは1時50分ごろでなくとも、2時でも2時半でもよく慌てることはなかった、という視点が欠けているのである。
袴田巌氏は事件後49日目の8月18日に逮捕され、拘留期限が3日と迫った9月6日に“自白”した。この“自白”がどのようにして取られたかは、いくつもの書物で暴露されているが、ここでも取り上げておきたい。
取調べは、清水署2階の取調室が道路端にあり、声が外に漏れないよう、真夏の暑い盛りに窓に目張りをして行われた。
取調べ時間は、逮捕された8月18日が13時間半、19日が10時間半、20日が9時間半、22日から28日までいずれも12時間以上、9月4日が約17時間、5日が約13時間、6日が14時間40分、他の日は短い日で7時間強、長い日で約13時間20分であった。
母と長男と一緒に住むためのアパートを借りるまとまった金が必要、が犯行動機とされたのであるが、これは第26回公判で袴田氏の長兄の証言により完全に否定された。
6月30日午前1時半ごろ盗みに入ったが、専務が起きてきたので殺害し、その後残りの3人を次々と殺害したとされたのであるが、果たして4人は寝ていたのであろうか。
夫婦2人とも遺体は腕時計をしていた。夫婦2人とも腕時計をして寝るなどということがあるだろうか。ほとんどの人は枕元に置いたりして腕時計を外すのではないか。
捜査当局は、この酒類販売業の男性のような袴田氏に有利な証言は一切無視し、このような人の証言は取り上げない方がよいと誰しもが考える嫁の証言と、証人を誘導し、更にその証言から袴田氏に不利な部分を抜き出して袴田氏の犯罪者人格を作り上げた。
曰く、「袴田の身辺調査をしたところ、中学当時の成績は社会、数学、体育を除いて最低の成績で・・・」
山本徹美氏が調べたところ、中学3年時の成績は、保健体育が4、社会・数学・美術が3、あとは2とのことである。2は最低の成績ではないだろう。同じような成績の者は警官にもいるのではないか。犯罪者にでっち上げられるときは、数学や理科が学年トップだった当方でも、ああだこうだ屁理屈をつけ、“それほど良い成績と言えるものではなく・・・”となってしまうのだろう。
公判中の昭和42年8月31日、こがね味噌従業員が味噌タンクの中から南京袋に入った5点の血の付いた衣類を見つけた。
だが、血の付着状況は実際に着ていて付着したとは認められないものであった。ズボンに小さな染みしか付いていないにもかかわらず、下のステテコには大きな染みが付いているのである。またステテコの染みが付いていない位置の、下のブリーフの同じ位置には染みが付いているのである。ズボンの生地に染みが浸透して初めて下のステテコに染みるのであり、ズボンに小さな染みしかないのに下のステテコにズボンの染みの数十倍の大きさの染みが付くことはあり得ない。ステテコの染みがない位置の下のブリーフの同じ位置に染みが付くことも絶対にあり得ない。またズボンとステテコにA型の血液しか付いていないのにブリーフにB型の血液がつくことも絶対にあり得ないのである。これでは被害者を刺す際、被害者によってステテコになったり、ブリーフになったりして刺したことになる。捏造する際、注意が足りなかった。
従業員らの証言に、袴田氏を犯人とするに都合の良い警察・検察の意図に沿った不自然なものが少なくないことを考えれば、警察・検察は昭和42年7月25日以降いつでも衣類を味噌タンクに隠すことができたと考えねばならない。だが従業員らが、販売する味噌のタンクに血の付いた衣類を入れることを認めるとは考えずらい。休日或いは従業員が工場にいない時間に、または従業員らを騙して入れたか、特定の従業員の協力を得たのであろう。(参考資料「世直し」) |
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