支那派遣軍(シナはけんぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。日中戦争(支那事変)解決を目的として編成され、在中国大陸の全陸軍部隊を統括した。軍隊符号はCGA。
沿革
1937年(昭和12年)7月、盧溝橋事件勃発後発生した第二次上海事変への対応として上海派遣軍が編成され、続いて盧溝橋事件への対応として支那駐屯軍が方面軍たる北支那方面軍に格上げされた。
1937年(昭和12年)10月には上海への増援として第10軍が編成され杭州上陸作戦を行い、同月、上海派遣軍と第10軍の上級司令部として中支那方面軍が編成された。1938年(昭和13年)2月の南京陥落後、中支那方面軍は隷下の両軍を含めて中支那派遣軍へと再編成された。
こうして中支那派遣軍と北支那方面軍が大陸方面での作戦に当っていたが、1939年(昭和14年)9月に両者を統括する「総軍(総軍の編成は日露戦争における満州軍以来)」として大陸令362号に基づき支那派遣軍を編成した。これに伴い中支那派遣軍は解隊された。 |
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また、南支那方面軍は1940年(昭和15年)2月9日の編成時は支那派遣軍隷下であったが、のちに北部仏印進駐のため大本営直轄となり、同方面軍が第23軍に改編されると再び隷下に収め指揮系統が一元化された。
第二次世界大戦の日米の参戦後、日本軍が太平洋で大攻勢が出来ないように連合国側は支那派遣軍を中国大陸に釘付けにさせる方針をとったが、支那派遣軍は蒋介石率いる国民党軍に圧勝しており、1945年8月11日に「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」と岡村寧次支那派遣軍総司令官は陸軍中央に電文を送っている。終戦時、支那派遣軍の総兵力は105万を数えた。
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