本日戦没者を追悼し、平和を祈念する日にあたり、全国戦没者追悼式に臨み先の大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を想い、深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来74年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。

 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いをいたしつつ、ここに過去を顧み、深い反省の上に立って再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、全国民とともに、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
今日(こんにち)をもち、天皇としての務めを終えることになりました。
 ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
 即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
 明日(あす)から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。
 
 日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。

 顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。

 ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。
天皇陛下は政府主催の在位30年記念式典で、象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠かった、と振り返り「改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」とするお言葉を述べられた。全文は以下の通り。
(日本経済新聞 2019/2/24 15:42)



■平成の30年に感慨深く

在位30年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。
即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。


津波で被害を受けた市街地に向かって黙礼する天皇、皇后両陛下(2011年4月27日、宮城県南三陸町)


平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

■果てしなき象徴像模索の旅

天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。


広島県呉市天応地区の仮設団地の住民を見舞う天皇、皇后両陛下(2018年9月)


天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の一つです。

■平和への祈り、次代にも

今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。心より深く感謝いたします。

平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ

全国戦没者追悼式で黙とうする天皇、皇后両陛下(2018年8月15日午後、東京都千代田区)


平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇(りょうあん)の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。

しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。

在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

【出典】日本経済新聞 2019/2/24 15:42
 
記者会見をなさる天皇陛下
宮内庁ホームページ
天皇陛下お誕生日に際し(平成30年)
会見年月日:平成30年12月20日
会見場所:宮殿 石橋の間

宮内記者会代表質問

問 天皇陛下として迎えられる最後の誕生日となりました。陛下が皇后さまとともに歩まれてきた日々はまもなく区切りを迎え,皇室は新たな世代が担っていくこととなります。現在のご心境とともに,いま国民に伝えたいことをお聞かせ下さい。


天皇陛下

 この1年を振り返るとき,例年にも増して多かった災害のことは忘れられません。集中豪雨,地震,そして台風などによって多くの人の命が落とされ,また,それまでの生活の基盤を失いました。新聞やテレビを通して災害の様子を知り,また,後日幾つかの被災地を訪れて災害の状況を実際に見ましたが,自然の力は想像を絶するものでした。命を失った人々に追悼の意を表するとともに,被害を受けた人々が1日も早く元の生活を取り戻せるよう願っています。

 ちなみに私が初めて被災地を訪問したのは,昭和34年,昭和天皇の名代として,伊勢湾台風の被害を受けた地域を訪れた時のことでした。

 今年も暮れようとしており,来年春の私の譲位の日も近づいてきています。

 私は即位以来,日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い,今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで,引き続きその在り方を求めながら,日々の務めを行っていきたいと思います。

 第二次世界大戦後の国際社会は,東西の冷戦構造の下にありましたが,平成元年の秋にベルリンの壁が崩れ,冷戦は終焉えんを迎え,これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。しかしその後の世界の動きは,必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し,また,テロにより多くの犠牲者が生まれ,さらには,多数の難民が苦難の日々を送っていることに,心が痛みます。

 以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。終戦を11歳で迎え,昭和27年,18歳の時に成年式,次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し,日本は国際社会への復帰を遂げ,次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年,英国のエリザベス二世女王陛下の戴冠式に参列し,その前後,半年余りにわたり諸外国を訪問しました。それから65年の歳月が流れ,国民皆の努力によって,我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め,平和と繁栄を築いてきました。昭和28年に奄美群島の復帰が,昭和43年に小笠原諸島の復帰が,そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は,先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め,私は皇后と共に11回訪問を重ね,その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは,これからも変わることはありません。

 そうした中で平成の時代に入り,戦後50年,60年,70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ,また,我が国の戦後の平和と繁栄が,このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず,戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに,心から安堵どしています。

 そして,戦後60年にサイパン島を,戦後70年にパラオのペリリュー島を,更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。

 次に心に残るのは災害のことです。平成3年の雲仙・普賢岳の噴火,平成5年の北海道南西沖地震と奥尻島の津波被害に始まり,平成7年の阪神・淡路大震災,平成23年の東日本大震災など数多くの災害が起こり,多くの人命が失われ,数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。ただ,その中で,人々の間にボランティア活動を始め様々な助け合いの気持ちが育まれ,防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます。また,災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には,いつも心を打たれています。

 障害者を始め困難を抱えている人に心を寄せていくことも,私どもの大切な務めと思い,過ごしてきました。障害者のスポーツは,ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが,それを越えて,障害者自身がスポーツを楽しみ,さらに,それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。パラリンピックを始め,国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を,皆が楽しんでいることを感慨深く思います。

 今年,我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間,多くの日本人は,赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね,その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら,各国を訪れた際には,できる限り会う機会を持ってきました。そして近年,多くの外国人が我が国で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も,将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。日系の人たちが各国で助けを受けながら,それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ,各国から我が国に来て仕事をする人々を,社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。また,外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め,各国との親善友好関係が進むことを願っています。

 明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は,常に私と歩みを共にし,私の考えを理解し,私の立場と務めを支えてきてくれました。また,昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし,愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば,私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく,現在の皇后と出会い,深い信頼の下,同伴を求め,爾来じらいこの伴侶と共に,これまでの旅を続けてきました。天皇としての旅を終えようとしている今,私はこれまで,象徴としての私の立場を受け入れ,私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに,自らも国民の一人であった皇后が,私の人生の旅に加わり,60年という長い年月,皇室と国民の双方への献身を,真心を持って果たしてきたことを,心から労ねぎらいたく思います。

 そして,来年春に私は譲位し,新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に当たってくれていることに感謝しています。新しい時代において,天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており,皇室の伝統を引き継ぎながら,日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。

 今年もあと僅かとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。


<English>

宮内庁HP『天皇陛下お誕生日に際し(平成30年)』より
明仁天皇“最後の誕生日会見”は 明らかに安倍政権への牽制だった!

反戦を訴え、涙声で「沖縄に寄り添う」と宣言
LITERA 2018.12.23
 それは、まさに右傾化する日本と安倍政権に向けて天皇が発したメッセージだった──。本サイトでは昨日の記事で、天皇在位中最後の誕生日を迎えた明仁天皇が、安倍官邸のプレッシャーをはねのけて、戦争や沖縄への思いを国民に向けて語るのではないかと書いた。だが、きょう公開された記者会見の内容は予想以上だった。明らかに安倍政権の政策や態度を危惧し、強く牽制するような発言を繰り返したのだ。

 明仁天皇は、途中、何度も言葉をつまらせ、ときに涙声になりながら、自らが天皇として皇后とともに歩んできた道のりを振り返るかたちで、戦後の平和と反戦にかける思い、戦争の犠牲の大きさを正しく伝える姿勢、沖縄への気持ち、日本人だけでなく外国人への心遣い、そして日本国憲法における「象徴」の意味などについて語ったのだ。

 なかでも印象的だったのが、安倍政権による“いじめ”と言える状況が苛烈を極める沖縄への強い言及だ。

 周知の通り、先の沖縄知事選では、逝去した翁長雄志前知事の遺志を継ぎ、辺野古新基地建設に明確にNOを示した玉城デニー氏が当選した。だが、安倍政権はこの沖縄の“民意”を無視して辺野古の海への土砂投入を強行。しかも、「辺野古移設反対なら普天間基地の返還はない」という卑劣な二択を迫り、基地に反対する人々を恫喝している。

 そんな状況のなか、明仁天皇は「沖縄に心を寄せていく」ことを訴えた。1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効(本土の主権回復)から、沖縄の復帰までに、20年の歳月を要したことを振り返ったうえで、あらためて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」と、本土から見捨てられてきた歴史を強調。「皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました」と続けたあと、声を震わせ、会見場を見やりながら、こう力を込めた。

「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」

「心を寄せていく」ことを強調したのは、明らかにいまの日本政府による沖縄切り捨てを意識してのものだろう。「先の大戦を“含め”実に長い苦難の歴史」、「沖縄の人々が“耐え続けた”犠牲」という言い回しからも、それが本土に“捨て石”とされた沖縄戦のみを指すものではないことは明白だ。

 本サイトでも何度か紹介してきたように、もともと、明仁天皇の沖縄にかける思いは極めて強いものがある。現在も米軍基地の押し付けという「犠牲」を強い、県民の基地反対の意思を潰そうとしている安倍首相の姿がその目にどう映っているかは想像にかたくない。

 実際、2013年の4月28日、安倍首相の肝いりで行われた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」にあたっては、政府側の説明に対し「その当時、沖縄の主権はまだ回復されていません」と反論し、出席に難色を示していたという。また、皇太子時代の1975年に沖縄を初訪問したときには、火炎瓶を投げつけられるという事件が起きたが、事前に「何が起きても受けます」と覚悟を決めていた現在の明仁天皇は、その日の夜、こんな談話を公表した。

〈払われた多くの犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものでなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません〉

 在位中最後となった今年の訪問も含め、沖縄を11回訪れた明仁天皇。天皇としての最後の誕生日会見で、あらためて、「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくと宣言したことは、現在も政府が沖縄を虐げていることを深く憂慮する発言に他ならないだろう。

■ 平和と反戦を語り「正しく伝えることが大切」と歴史修正主義の動きを戒め
 踏み込んだのは沖縄問題だけではない。会見では時間をかけて平和と反戦への思いを語ったのだが、そのなかには、安倍政権が扇動している歴史修正主義に釘を刺すくだりもあった。

 前述した沖縄への言及の直後、明仁天皇は「そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず……」と述べ、一層力を込めながらこう続けたのだ。

「……戦後生まれの人々にも、このことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」

 日本は戦後、戦争によって直接的に人を殺すことも殺されることもなく、平成の時代を終えようとしている。だが、それを継続していくには、戦争の加害と被害の記憶を継承するのみならず、「正しく伝えていくことが大切」と諭したのである。

 周知の通り、安倍首相は慰安婦問題や南京事件など戦時中の国家犯罪を打ち消そうとする動きを加速させ、歴史教育に対する介入を強めてきた。明仁天皇が、戦争の歴史を、単に「伝えていく」というのではなく、あえて一歩踏み込んで「“正しく”伝えていく」と形容したのは、こうした安倍首相による歴史修正へのカウンターとしか思えない。

■ 外国人労働者問題についても言及、安倍政権と対照的な姿勢を
 来日する外国人に対する言及も目を引いた。誕生日会見の後半、明仁天皇は「今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました」と切り出した。これだけでも「明治維新150年」を打ち出す安倍政権とは対照的だが、天皇は続けて、日系の人たちが外国で助けを受けてきたことに触れながら「それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています」と述べた。

 明仁天皇は、今年11月の美智子皇后との私的旅行のなかでも、静岡県の浜松市外国人学習支援センターを訪問し、外国人やボランティアたちと直接話す機会を設けた。こうした日本社会の一員として安心して暮らせるようにとの思いは、やはり、安倍政権が先日の国会で、外国人労働者を安価な労働力としか扱わず、人間としてのケアをまったく考慮しない入管法改正案を強行したことの対比として映る。

 いずれにしても、会見での言葉をひとつひとつ見ていくと、明仁天皇は淡々と平成30年のあゆみを振り返ったのではなく、戦争の歴史と近年の社会状況を強く意識し、覚悟をもって“最後の会見”に臨んだことがよくわかる。

 昨日の記事でも解説したように、踏み込んだ“護憲発言”を行なった2013年の誕生日会見以降、安倍官邸は宮内庁の締め付け、皇室へのプレッシャーを強化し、天皇・皇后のリベラルな発言を封じ込めようとしてきた。結果として、ここ数年の天皇誕生日の会見内容が、トーンダウンしていたことも事実だ。だが、そんななかにあって今回、天皇は“安倍政権への箴言”を敢然と繰り返したのである。それは何より、官邸からの圧力に抗してでも、人々に伝えねばならなかったからだろう。

■ 日本国憲法下の「象徴」であることを強調したのも国家元首化への牽制
 実際、自身の退位については会見の序盤と最終盤で2回触れていたが、それもまた“天皇と立憲民主主義の関係”を確認することで、安倍首相や自民党、極右勢力が目論む「天皇の元首化」などの復古的改憲を暗に批判するものだった。

「私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います」

「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」

 明仁天皇は、日本国憲法で位置付けられた「象徴」としての天皇を国民が「受け入れ」たことに謝意を表した。これは、象徴天皇が国民の同意が必要な存在であることを示唆したともいえるだろう。そして、この憲法にふさわしいあり方を皇后とともに模索し、今後も求め続けると宣言した。その天皇像が皇太子にも引き継がれるよう望んだ。最後はほとんど涙ながらだった。

 言い換えればこれは、“国民と憲法あってこその天皇”だと自戒することに他ならない。戦前日本において、国民は「天皇の赤子」とされた。政治権力は、皇室を逆らうことのない絶対的権威として戦争に利用した。「国民に衷心より感謝」した平成の天皇は、それとは真反対のメッセージを込めたのだった。

 いよいよ平成が終わる年がやってくる。退位に際した記者会見は行われないという。政治は日々不穏な色彩を濃くしている。明仁天皇のメッセージをどう受け止めるかは、わたしたちひとりひとりにかかっている。

(編集部)

【出典】LITERA 2018.12.23

Press Conference on the occasion of His Majesty's Birthday (2018)
His Majesty's Answers to the Question by the Press on the Occasion of His 85th Birthday 2018, and the Activities of the Emperor over the Past Year

(Imperial Household Agency Press Club)

Question

This is the last year Your Majesty celebrates Your birthday as the Emperor. The days that Your Majesty, together with Her Majesty the Empress, have carried out Your duties will soon come to a closure, and the throne will be succeeded by a new generation of the Imperial Family. Could You tell us Your current thoughts and share with us any messages You would like to convey to the people of Japan?


Answer

As I look back over the past year, I cannot forget the natural disasters that struck with even greater frequency than in previous years. Many people lost their lives, while many others lost the basis of their livelihoods due to disasters such as torrential rains, earthquakes, and typhoons. I learned about each disaster in the papers and on television and then saw the actual state of damage with my own eyes on my visits to some of the afflicted areas, and the catastrophic destruction caused by the force of nature was beyond my imagination. I would like to offer my sincere condolences to all those who lost their lives and hope that those affected by the disasters will be able to return to their former lives as soon as possible. I remember that the first time I travelled to a disaster-afflicted region was in 1959, when I visited, as a representative of Emperor Showa, the areas struck by the Ise Bay Typhoon.

We are now coming to the end of the year, and the day of my abdication in the spring of next year is approaching. Ever since ascending to the throne, I have spent my days searching for what should be the role of the Emperor who is designated to be the symbol of the State by the Constitution of Japan. I intend to carry out my duties in that capacity and shall continue to contemplate this question as I perform my day-to-day duties until the day of my abdication.

The international community after World War II was defined by an East-West Cold War structure, but when the Berlin Wall came down in the fall of the first year of Heisei (1989), marking the end of the Cold War, there were hopes that the world might now welcome a time of peace. However, subsequent global developments have not necessarily gone in the direction that we desired. It pains my heart that ethnic disputes and religious conflicts have occurred, numerous lives have been lost to acts of terrorism, and a large number of refugees are still enduring lives of hardship today throughout the world.

Those were the conditions that Japan faced as we walked the path in the post-war years. I was 11 years old when the war ended, and in 1952, at the age of 18, my Coming of Age Ceremony was carried out followed by the ceremony of Investiture as Crown Prince. That same year the San Francisco Peace Treaty was formally implemented, marking Japan’s return to the international community, and I remember welcoming the foreign ambassadors and ministers newly arriving in Japan one after another. The following year I attended the Coronation of Her Majesty Queen Elizabeth II of the United Kingdom, and I spent about six months before and after the Coronation visiting many countries. In the 65 years since then, thanks to the efforts made by the people of Japan, our country has taken steady steps forward in the world and has come to enjoy peace and prosperity. In 1953, the Amami Islands were returned to Japan, followed by the Ogasawara Islands in 1968, and Okinawa in 1972. Okinawa has experienced a long history of hardships, including what happened there during the war. I have visited the prefecture 11 times with the Empress, starting with the visits that I made in my days as Crown Prince, and have studied the history and culture of Okinawa. We are committed to continue to care for the sacrifices that the people of Okinawa have endured over the years, and that commitment will remain unchanged in the future.

Japan then entered the Heisei Era, during which we reached the milestone years of the 50th, 60th, and 70th anniversaries of the end of World War II. I have believed it is important not to forget that countless lives were lost in World War II and that the peace and prosperity of post-war Japan was built upon the numerous sacrifices and tireless efforts made by the Japanese people, and to pass on this history accurately to those born after the war. It gives me deep comfort that the Heisei Era is coming to an end, free of war in Japan.

I shall not forget the trips that the Empress and I made to Saipan for the 60th anniversary of the end of the war, to Peleliu Island in Palau for the 70th anniversary, and to Caliraya in the Philippines the following year, to pay our respects to those who lost their lives in the war. I am grateful to each of those countries for welcoming us with warm hospitality.

Natural disasters also left an indelible impression on my mind. Many disasters struck Japan in the Heisei Era, from the eruption of Mt. Unzen’s Fugen Peak in 1991, the Earthquake off Southwest Hokkaido and the ensuing tsunami that hit Okushiri Island in 1993, to the Great Hanshin-Awaji Earthquake in 1995 and the Great East Japan Earthquake in 2011. These disasters have claimed numerous lives and affected countless people, and I have no words to describe the deep sadness I feel when I think of this. At the same time, I have been heartened to see that, in the face of such difficulties, the spirit of volunteering and other forms of cooperation is growing among the people and that the awareness of disaster preparedness and the capacity to respond to disasters are increasing. I am always touched by the sight of people coping in an orderly manner when disasters strike.

The Empress and I have also considered it an important duty of ours to care for those with disabilities and others faced with difficulties. Sports for the disabled began in Europe for the purpose of rehabilitation, but it has always been our hope that, extending beyond those origins, they will grow into something that disabled persons themselves enjoy doing and that people enjoy watching as well. It moves me deeply to see that people are now enjoying the Paralympics and also the National Sports Games for the Disabled, held annually in Japan.

This year marked 150 years since the beginning of Japanese emigration overseas. Over the years many Japanese people who emigrated have continued to work hard, with the help of the people in their newly settled countries, and they have come to play important roles in the societies there. Thinking of the efforts of those people of Japanese ancestry, we have made a point of meeting with them as much as possible when visiting those countries. Meanwhile, many foreign nationals have come to work in Japan in recent years. When the Empress and I visited the Philippines and Viet Nam, we met individuals who were making efforts towards their goals of working in Japan one day. Bearing in mind that the people of Japanese ancestry are living as active members of society with the help of the people in their respective countries, I hope that the Japanese people will be able to warmly welcome as members of our society those who come to Japan to work here. At the same time, the number of international visitors to Japan is increasing year by year. It is my hope that these visitors will see Japan with their own eyes and deepen their understanding of our country, and that goodwill and friendship will be promoted between Japan and other countries.

In April next year, the Empress and I will celebrate the 60th anniversary of our marriage. The Empress has always been at my side, understood my thoughts, and supported me in my position and official duties as I performed my duties as the Emperor. She also showed great devotion towards Emperor Showa and others related to me and raised our three children with deep affection. Looking back, it was soon after I embarked on my life’s journey as an adult member of the Imperial Family that I met the Empress. Feeling a bond of deep trust, I asked her to be my fellow traveller and have journeyed with her as my partner to this day. As I come to the end of my journey as Emperor, I would like to thank from the bottom of my heart the many people who accepted and continued to support me as the symbol of the State. I am also truly grateful to the Empress, who herself was once one of the people, but who chose to walk this path with me, and over sixty long years continued to serve with great devotion both the Imperial Family and the people of Japan.

Finally, I will abdicate next spring and a new era will begin. I am sincerely thankful to the many people who are engaged in the preparations. The Crown Prince, who will be the Emperor in the new era, and Prince Akishino, who will be supporting the new Emperor, have each accumulated various experiences, and I think that, while carrying on the traditions of the Imperial Family, they will continue to walk their paths, keeping pace with the ever-changing society.

As the year draws to a close, it is my hope that the coming year will be a good year for all the people.
戦没者追悼式 天皇陛下のお言葉全文
 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来既に73年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

2018/8/15
天皇陛下のお言葉 全文

2017年8月15日
 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来既に71年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
 ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

天皇陛下再び「深い反省」 戦後71年追悼式でお言葉
東京新聞 2016年8月15日
 終戦から七十一年となった十五日、政府主催の「全国戦没者追悼式」が東京都千代田区の日本武道館で開かれ、全国から集まった約五千人の遺族らが、約三百十万人の戦没者を悼み、平和への祈りをささげた。天皇陛下は、戦後七十年に当たる昨年に続き、お言葉で「深い反省」という表現を使い、不戦への強い思いを述べられた。

 天皇陛下は「終戦以来既に七十一年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられました」と、国民が戦後の平和をつむいできたことを強調。「過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないこと」を切に願うと述べた。陛下にとって、生前退位の意向をにじませた「お気持ち」を公表後、皇居外で取り組む初めての公務となった。

 今年は、集団的自衛権の行使を柱とし、戦後日本のあり方を変質させる安全保障関連法が施行されてから初めての式典。安保法の本格的な運用や改憲論議の加速が見込まれる中、安倍晋三首相は式辞で「戦争の惨禍を決して繰り返さない」と述べた。ただ、第二次安倍政権発足後の二〇一三年以降、四年連続で、歴代首相が盛り込んできたアジアへの加害と反省には触れなかった。

 式典は遺族のほか、天皇、皇后両陛下、衆参両院議長ら各界の代表が参列。正午の時報に合わせ参列者が、戦死した軍人や軍属約二百三十万人と、空襲などで亡くなった民間人約八十万人の計三百十万人に黙とうをささげた。

 遺族らの献花を手伝う補助者は昨年まで厚生労働省の職員だったが、戦争の記憶を次世代に継承する観点から、今年は初めて戦没者のひ孫世代となる十~十七歳の男女十四人が務めた。
 厚労省によると、遺族の高齢化で、参列遺族は減少傾向にある。戦後七十年で関心の高かった昨年は増えたが、今年は昨年を下回った。


◆象徴の務めを意識 歴史に向き合う強い思い

 天皇陛下は全国戦没者追悼式でのお言葉で、昨年に続き「深い反省」との表現を使われた。基本的な構成は二〇一四年までの定型的なものに戻ったが、先の大戦で三百十万人の日本人が犠牲となり、周辺諸国に多大な被害を与えた歴史に真摯(しんし)に向き合い、決して忘れてはならないという陛下の強い願いがうかがえる。

 生前退位の意向をにじませた「お気持ち」を公表した直後だけに内容に注目が集まっていた。「お気持ち」では、象徴の務めを果たす責任の重さを表現されており、今回のお言葉も象徴としての務めを意識した発言とみられる。

 戦後七十年の節目だった昨年は「さきの大戦に対する深い反省」と述べ、反省がさきの大戦に対するものであることが明示されていた。今年は「さきの大戦に対する」という言葉はなくなったものの、その前に「過去を顧み」という言葉が昨年同様使われており、「深い反省」がさきの大戦に対するものであることは明らかだといえる。

 陛下は今年一月、皇后さまと共にフィリピンを訪問した。出発前のあいさつで、日米両軍の激しい戦闘によって十万人のフィリピン人が犠牲となった「マニラ市街戦」に触れ、日本による加害に言及した。

 昨年十二月の誕生日会見では「年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います」と語った。「深い反省」は、こうした発言と同一線上にある。

 神戸女学院大学の河西秀哉准教授(日本近現代史)は「今年からまた定型表現に戻るだろうとは考えていた。ただ『深い反省』という四文字に日本の加害責任を含めて過去を忘れてはいけないという、陛下の思いを感じる。国民だけではなく、次世代の皇族にも自分の思いを共有してほしいと語り掛けているのではないか」と指摘した。 (小松田健一)
「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示している天皇陛下は、
8日、ビデオメッセージでお気持ちを表されました。
象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉(全文)
 戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。
 私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

 本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

 そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

 私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ケ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

 始めにも述べましたように、憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

 国民の理解を得られることを、切に願っています。


天皇が「お気持ち」で生前退位に反対する安倍政権や日本会議へ反論!  象徴天皇を強調して戦前回帰けん制も
LITERA 2016.08.08


 本日、公表された天皇自身の「お気持ち」を表したビデオメッセージだが、その中身は予想以上に踏み込んだものとなった。
 たんに高齢で天皇としての務めが十分に果たせなくなる懸念を表明しただけでなく、各地に出かけ国民の傍に寄り添うことこそが象徴天皇の役割であり、単純に公務を縮小するのは「無理があろう」と明言。「摂政」をおくという措置に対しても違和感を表明した。また、昭和天皇の崩御のときに起きた自粛が再現されることへの懸念を示し、大々的な葬儀についても「避けることは出来ないものか」とはっきり意思を表した。
 これは、明らかに安倍政権の周辺から出てきている「生前退位反対論」を牽制する意図があってのものだろう。

 実は7月にNHKが「生前退位ご希望」の第一報を打った際、菅義偉官房長官は報道に激怒し、そのあとも政府関係者からは「生前退位は難しい」という慎重論ばかりが聞こえてきていた。「国務を減らせば済む話」「摂政で十分対応できる」、さらに「天皇が勝手に生前退位の希望を口にするのは、憲法違反だ」という声も上がっていた。
 また、安倍政権を支える「日本会議」などの保守勢力からはもっと激しい反発が起こっていた。たとえば、日本会議副会長の小堀桂一郎氏は産経新聞で「生前退位は国体の破壊に繋がる」との激烈な批判の言葉を発している。

 「何よりも、天皇の生前御退位を可とする如き前例を今敢えて作る事は、事実上の国体の破壊に繋がるのではないかとの危惧は深刻である。全てを考慮した結果、この事態は摂政の冊立(さくりつ)を以て切り抜けるのが最善だ、との結論になる」(産経新聞7月16日付)
 安倍政権の御用憲法学者で、日本会議理事でもある百地章・日本大学教授も朝日新聞にこう語っていた。

 「明治の皇室典範をつくるときにこれまでの皇室のことを詳しく調べ、生前退位のメリット、デメリットを熟考したうえで最終的に生前譲位の否定となった。その判断は重い。生前譲位を否定した代わりに摂政の制度をより重要なものに位置づけた。そうした明治以降の伝統を尊重すれば譲位ではなくて摂政をおくことが、陛下のお気持ちも大切にするし、今考えられる一番いい方法ではないか」(朝日新聞7月14日付)

 安倍首相の周辺や日本会議が生前退位をヒステリックに否定したがるのは、それが彼らの極右思想の根幹と真っ向から対立するものだからだ。

 そもそも生前退位というのは、江戸時代後期以前の皇室では、しばしば行われていた。ところが、明治になって、天皇を頂点とする国家神道を国民支配のイデオロギー装置にしようと考えた政府は、大日本帝國憲法と皇室典範によって、この生前退位を否定、天皇を終身制にした。「万世一系」の男性血統を国家の基軸に据え、天皇を現人神と位置づける以上、途中で降りるなどということを許すわけにはいかない。終身制であることは不可欠だった。

 それは、この大日本帝國憲法の復活を最終目標にしている安倍首相と日本会議も同様だ。周知のように、自民党の憲法改正草案でも、日本会議の「新憲法の大綱」でも、天皇は「国家元首」と規定されている。彼らが天皇を神話的な存在に戻し、国民支配の装置として再び政治利用しようという意図をもっているのは明らかであり、生前退位を認めるというのは、その目論見が水泡に帰すこととイコールなのだ。

 しかし、天皇は今回のメッセージで、こうした日本会議や安倍首相が狙う戦前的な天皇制復活、天皇の国家元首化をきっぱりと否定した。

 それはたんに生前退位を示唆しただけではない。天皇はメッセージの間、何度も「憲法」「象徴」という言葉を口にした。
「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」
「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます」

 さらに、天皇は「天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には」と、天皇を「機能」という言葉で説明した。

 つまり、「象徴天皇」があくまで国民の総意にもとづく「役割」であり、国民の声を聞き寄り添う「機能」を有している必要がある、と語ったのだ。そして、その“日本国憲法下の象徴としての天皇”のあり方を守るために、生前退位の必要性を示唆したのである。

 これは天皇を「国家元首」とする改憲をめざし、「万世一系、男系男子」にこだわる安倍首相や日本会議にとっては、ありえない言葉だっただろう。
 実際、この「お気持ち」表明の後、異常な早口で通り一遍のコメントを読み上げる安倍首相の様子は、明らかに不本意なときに安倍首相が見せるいつものパターンだった。

 「安倍首相やその周辺の右翼連中はもともと、天皇陛下のことを『ヴァイニング夫人に洗脳されている、国体の破壊者だ』と言っていたくらいで、天皇陛下のお気持ちなんて一顧だにしていなかった。生前退位や女性宮家の問題もずっと裏で要望を出されていたのに無視されていた。それが今回、天皇に『国民へのメッセージ』というかたちで、問題を顕在化されてしまったうえ、憲法と象徴天皇制のありようまで語られてしまったわけですからね。いまごろ、はらわたが煮えくりかえってるんじゃないでしょうか」
(ベテラン皇室記者)

 天皇が今回、この「お気持ち」を公表した裏には、単純に高齢化への不安から生前退位を実現したいという以上に、天皇という存在が皇太子の代になっても政治利用されないよう「日本国憲法における象徴としての天皇のありかた」を伝えておきたいという気持ちがあったと言われている。
 戦前回帰を企図する安倍政権がすんなりと生前退位を認めるとは思えないが、少なくとも国民にはその思いは伝わったのではないだろうか。

(エンジョウトオル)
上諭 
 朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まる に至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲 法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を 裁可し、ここにこれを公布せしめる。
御名御璽 
 本日、日本国憲法を公布せしめた。 この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を 人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって確定された ものである。  即ち、日本国民は、みづから進んで戦争放棄し、全世界に正義と秩序とを 基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、 民主主義に基いて国政を運営することを、ここに明らかに定めたものである。  朕は、国民と共に全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責 任を重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思う。
日本国憲法公布の勅語 昭和天皇 1946年(昭和21年)11月3日
 【上諭】:   1 君主のさとし。2 旧憲法下で、法律・勅令・条約・予算などを公布するとき、その冒頭に記され天皇の裁可を示す文章。
 【御名御璽】:天皇の名前と天皇の公印。詔勅などの末尾に御名と御璽が記されていることを表す。法律の公布にあたっても記される。
 大辞林(三省堂) 
昭和天皇 裕仁陛下(中央)
1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」を 全会一致で可決した枢密院本会議の模様
  ウィキペディア(フリー百科事典)より
1946年(昭和21年)11月3日公布 1947年(昭和22年) 5月3日施行
日本國憲法は日本国の現行の憲法典である
天皇陛下八十歳の誕生日 「最も印象に残るのは戦争」
慶大名誉教授・小林節氏「安保法制懇は学識なし」 「解釈改憲は憲法ハイジャック」要約 (日刊ゲンダイ)

慶大名誉教授・小林節氏「安保法制懇は学識なし」(上)

■「スイスの憲法」 国家と国民が協力する憲法というのは無理がある。国民が国家に協力しているかどうかを判断、管理するのは権力側ですからね。

■絶対主義のひどさを経験して、市民革命が起こり、二度とこういうことが繰り返されないように憲法が生まれた。安倍首相はあまりに初歩的な知識を欠いています。

■世界中の紛争地に日の丸を立てて、突っ込んでいきたいんじゃないですか。大国と互角に渡り合いたくて。そこで死ぬのは普通の国民です。そう思うと心底、怖くなってきます。
日刊ゲンダイ記事全文


慶大名誉教授・小林節氏「解釈改憲は憲法ハイジャック」(下)
■「憲法は国家権力を縛る」 縛られる国家権力の中で一番強いのが内閣ですよ。その内閣が閣議決定で憲法解釈を変えて憲法の精神をひとひねりしようとするなんて、あり得ない。

■政治家は「信じてください」って言いますが、信じられません。権力者は信じられないから憲法があるんですよ。歴史を振り返ってごらんなさい。権力者を信じてロクなことはなかった。

■今、議論されていることはいずれも個別的自衛権を拡大して対応できるのです。集団的自衛権という大風呂敷を広げたら、原理的にはどこへでも出ていけますよ、ということになってしまう。

■「個別的自衛権を拡大する方が安全、安心」 日本の同盟国は世界中、敵だらけじゃないですか? その米国と一緒に戦うようになれば、東京で9・11が起こり得るのです。

■「砂川裁判について」 最高裁が逃げた判例で、最高裁から集団的自衛権のお墨付きを得たという理屈はおかしい。集団的自衛権の議論を見ていると、いくつものデタラメが複雑に何重にも絡み合っているので、呆れています。
日刊ゲンダイ記事全文
安倍政権による悪夢 日本は、再び国民を巻き込んで破滅の道へ! この戦争も平和のためだった <カラー 第二次世界大戦の馴れ初め#01>

公開日: 2014/03/28

真珠湾攻撃、1941年12月8日未明に開始。当時、この映像の面々 昭和天皇陛下、陸軍大将、東条英機 (とうじょうひでき) 元首相、山下奉文 (やました ともゆき) 軍司令官。日本の子供達。
アメリカ、フランクリン・ルーズベルト大統領。アメリカの軍人、ダグラス・マッカーサー 陸軍元帥。
ナチス・ドイツ、アドルフ・ヒトラー 内閣。イギリス第61代首相 ウィンストン・チャーチル。
注意!一部のシーンに、ご遺体(死体)の映像があります

第二次世界大戦の日本人戦没者の数
日本人戦没者の数((PDF)
チャップリンの史上ベストスピーチ
1940年に上映された「独裁者」の中で、ヒットラーのダブルの床屋が兵士たちの前で­演説するシーン。 チャーリー・チップリン自身によって書かれたスピーチで、史上でもっとも感動的なスピーチとも言われ、各国の言葉に訳され、世界中に広められています。
The Great Dictator full movie russian 1940 Charlie Chaplin
対日、ソ連軍参戦の真相とマンハッタン計画
アメリカからみた【対日ロシア参戦&マンハッタン計画(Manhattan Project)】
第二次世界大戦
 1945年7月12日、ソ連にいる日本大使(佐藤尚武)宛に、ソ連に和平の仲介を依頼する特使を派遣する予定であることを伝えるよう打電した。その暗号電報は即座に解読され、トルーマンに知らされた。
トルーマンは、日本政府が和平の動きに出たことを知って、日本への2種類2発の原爆投下を急がせた。
1945年7月にはポツダム会談に参加した。
 米陸海空軍参謀本部は、首脳会談の前に合同会議を持ち、「ソ連が参戦する予定であることと、天皇制存続を認めれば、日本の降伏は今日にでもありうる。
日本はすでに壊滅状態で、原爆を使う必要はなく、警告すれば十分。」との結論を出した。しかしトルーマンはそれを無視した。
 17日にソ連のスターリンと事前打ち合わせをした際、スターリンからソ連が(ヤルタ会談での密約通り)8月15日に対日参戦すると聞かされた。
 21日に原爆実験成功の詳しい報告を受け取り、その威力のすさまじさを知る。原爆を得たトルーマンは、東欧問題などで、ソ連に対し断固とした態度を示すようになる。トルーマンは、核の力でソ連を抑止できるという考えがあった。
沖縄決戦 BATTLE OF OKINAWA 1945 
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 沖縄戦(おきなわせん)とは、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた戦いである。
アメリカ軍の作戦名はアイスバーグ作戦(英: Operation Iceberg、氷山作戦)。第二次世界大戦における日本国内での最大規模の陸戦であり、また日米最後の大規模戦闘となった。
国内唯一の地上戦と言われる事があるが、当時日本領だった南洋諸島で行われたサイパンの戦い、硫黄島の戦い、占守島の戦い、南樺太での戦闘等があるという捉え方からは誤りである[1]。

ただ現在の日本の領土内では唯一の地上戦である。また沖縄戦は他地域の地上戦に比べ、民間人が多く参加、あるいは巻き込まれた。沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日に終るはずが3日早く6月20日に終了した。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦[2]への流れの中に位置づけられる[3]。

主要な戦闘は沖縄本島で行われた。日本軍は水際迎撃を避けて、持久戦闘を基本方針として戦った。特に首里(現那覇市の一部)北方で激戦となった。沖縄諸島周辺の海上でも、神風特攻隊を中心とした日本軍航空部隊や戦艦「大和」などと、連合軍艦隊の間で戦闘が行われた。

上陸後2ヶ月経った1945年5月末に、連合軍が首里を占領した。日本軍は南部に後退したが、6月下旬までに組織的戦力を失った。掃討戦は終戦まで続き、不発弾処理は2010年現在も継続中である。使用された銃弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾6万18発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された[4]。

また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では鉄の雨や鉄の暴風(英:Typhoon of Steel)などと呼ぶ。[5]沖縄戦での全戦没者は20~24万人とされる。沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者が12万2228人、そのうち9万4000人が民間人である。

ただし、沖縄県出身者の死者15万人以上という一部研究者による推計値もある。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千人であった。

沖縄戦
沖縄戦 Battle of Okinawa
火垂るの墓 Part 1/2 火垂るの墓 Part 2/2
映画 「火垂るの墓」 予告編
2012/03/12 に公開「火垂るの墓」清太14歳、節子4歳。焼け野原に、はかなく光る命がふたつ。太平洋戦­争末期。神戸に暮らす清太と節子の兄妹は、空襲で親も家も失ってしまう。親戚の家に身­をよせたものの、邪魔者扱いされた二人は、大人の力を借りずに防空壕で暮らすことを決­めた。夢見たのは、自由気ままな二人だけの暮らし。しかし幼い兄妹を待っていたものは­、想像以上に厳しくつらい日々の始まりだった・・・。
映像は、有名なエンディングシーン・・・兄が妹の亡骸を柳行李に入れて荼毘にふす。夜­になり兄と妹が座る六甲山系の山の上から現代の神戸の夜景が見える・・・作者は、どん­な意図でこのシーンを加えたのか?
鬼畜!日本の核武装論者
昭和天皇と原子爆弾
 日本はポツダム宣言を受諾したが昭和天皇は玉音放送の中で「【読み下し文】敵は新に残虐なる爆弾を使用して、しきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。而も尚、交戦を継続せんか終(つい)に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。
 斯(かく)の如くんば朕何をもってか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。
」と原子爆弾に対する抗議を行った。
日本の核武装論
 日本の核武装論は、日本が核武装することの是非についての議論である。核武装論は、広義には核兵器を保有していない国家における安全保障政策上の核武装の是非や利得についての議論を指し、狭義には核武装賛成論を指す。核兵器保有国においては、既に保有する核兵器をどのように運用整備するかという核戦略が議論される。
鬼畜!日本の核武装論者
■ 安倍晋三(自由民主党衆議院議員、内閣総理大臣)
■ 麻生太郎(自由民主党衆議院議員、元内閣総理大臣、副総理兼財務・金融大臣)
■ 池坊保子(公明党衆議院議員)
■ 石原慎太郎(作家、元東京都知事)
■ 市村浩一郎(民主党元衆議院議員)
■ 伊藤貫(国際政治・米国金融アナリスト)
■ 井上喜一(自由民主党元衆議院議員、元内閣府特命担当大臣。故人)
■ 勝谷誠彦(コラムニスト)
■ 城内実(自由民主党衆議院議員)
■ 小池百合子(自由民主党衆議院議員、元防衛大臣、元環境大臣)


国家基本問題研究所の関係者
■ 小林よしのり(漫画家。『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』では、アメリ
 カによる原爆投下を、「人類の不条理として常に何かを産み出してきた「人間の戦
 争」の可能性すら奪った罪は大きい」と批判していたが、2006年の北朝鮮の核実験
 を受けて、現在では日本の核武装を主張している。)
■ 志方俊之(帝京大学教授、元陸上自衛隊北部方面隊総監・陸将)
■ 清水幾太郎(元学習院大学教授 社会学専攻。故人)
■ 下村博文(自由民主党衆議院議員、文部科学大臣)
■ 副島隆彦(常葉学園大学 教育学部特任教授)
■ 高市早苗(自由民主党衆議院議員、総務大臣)
■ 田母神俊雄(軍事評論家、元航空幕僚長)
■ 中川八洋(筑波大学名誉教授 歴史人類学専攻)
■ 中西輝政(京都大学大学院人間・環境学研究科教授)
■ 西部邁(評論家、思想家、雑誌『表現者』顧問)
■ 西村眞悟(次世代の党衆議院議員)
■ 野田毅(自由民主党衆議院議員、元自治大臣、元国家公安委員会委員長)
■ 野田佳彦(民主党衆議院議員、元内閣総理大臣)
■ 橋下徹(弁護士、元大阪府知事、大阪市長)
■ 伴野豊(民主党衆議院議員)
■ 兵頭二十八(軍学者)
■ 平松茂雄(「沖縄と共に『自立国家日本』を再建する草の根ネットワーク」専任講
 師、国家基本問題研究所評議員)
■ 福田和也(慶應義塾大学教授、文芸評論家)
■ 古森義久
■ 水島総
■ 元谷外志雄(アパグループ代表)
■ 米沢隆(民主党元衆議院議員)
■ 和田秀樹(精神科医)
(出典)ウィキペディア
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〈東日本大震災追悼式〉 天皇陛下のおことば全文



北大工学部・情報工学科 計算機室にて

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2014/02/11
 
2015/04/05
嘘つきの世界
 
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 橋下徹の正体
日本の頭脳 世界も驚く名言集

 
お金持ちの 未来のために
 
耐震偽装事件

耐震偽装隠蔽事件 「巨悪は政治家と官僚、 記者クラブ」
 
原子力村 癒着の相関図
原子力村 癒着の相関図 放射線被ばくの早見図
忘れるな! あのスキャンダル 国会議員たち 
 
 
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大手ゼネコン大儲け 北海道新幹線着工へ
泣いて生まれて きたけれど
 泣いて生まれてきたけれど-3.11以前の生活を続けていれば命に関わる危機が迫っている
コメントより
 突然死が増えているのも当然。心臓には体内平均の10倍濃縮。ほんの数ベクレルでも毎日食べると危険!
@teatree_ft
「心不全パンデミック」。学会の挨拶で明らかにこの言葉が使われている。
第16回日本心不全学会学術集会
「心不全の増加はこれまで報告がありません。
今回の東日本大震災で心不全が増加した原因を明らかにすることは・・・」


@ma_chako
「神奈川県に住む知り合いが亡くなった。しかし葬儀が10日後だと言うので不思議に思って聞いたら、火葬場が混んでいて、ダビに出来ない」と言う。
死因は心筋梗塞による突然死。先週も神奈川県の友人が突然死した。
葬儀社に問い合わせたら今は死者が多く火葬場が混んでいて、一週間以上待たされるという。
2012年1月17日


このツイートの一年後 

1月28日:追記
@369yume
元気で無病だった友人が今月3日、心筋梗塞で突然他界…涙)
告別式は上野寛永寺でなんと21日に。異常事態です。2013年1月28日


@nosaibaninko
福島の人から「郡山の親族が急死。火葬場が2週間待ち。
白血病が多くなってきている。福島に通って女性のケアしていた鎌倉の女性が白内障に。
関東でも10倍患者が増えていると言われた。
甲状腺検査で蜂の巣状も出ている」との話。
2013年1月28日


@KOSHI_HIKARI_
宮城から避難して来た友達が年明け早々「正月どころじゃなかった」と。
44歳のイトコが突然死。
「葬式どうするか」と言ってる間に、今度はその父親が突然死。
死因は二人とも心筋梗塞。
「死ぬ直前まで元気で出かけて行った」と奥さん放心状態。
過労死とか歳だからで片付けられるんだろう。千葉県在住。


@Cisibasi
現在、某医療機関に潜入取材中ですが、入院患者が多数、心筋梗塞を誘うような症状で、入院症状とは明らかに違うセシウム摂取によると思われる、急性の心不全で、集中治療室に、カテーテル手術を受けています。あまりに多いため、看護師シフトや医者の診察シフトにも影響が出ている。
2013年1月26日


@kissmeyummy
今日、高崎市内の短大助教授54才男性、学校を無断欠席。
学校から職員が高崎市内のご自宅へ様子を見に行くと自宅の部屋で亡くなってらしたそうです。心筋梗塞らしいとのこと。
普段から外食が多かったそうです。
2012年12月18日


@susanou666
8月初旬、知人が心筋梗塞で突然死。 享年33歳。
過去に病歴なし、前日までピンピンしていた‥
「心臓が痛くなる」 「病院に行って心電図をとってもらうが異常がでない」 「息が切れる。パタンと倒れる。老若にかかわらず突然死」


@karitoshi2011
私の元生徒を返せ!生き返るらせて見せろ!心筋梗塞だと!
まだ19だぞ!因果関係の証明なんてできないさ!
だけど、死ぬには早過ぎるとは思わないか?おかしいとは思わないか?


@Usacousausa
先日、魚沼市の高校の山岳部の生徒が心筋梗塞で亡くなっていたことを聞いた。
そして昨日、十日町市の30代の男性も同じく心筋梗塞で亡くなったことを聞いた。
一般的に高校生や30代で心筋梗塞で亡くなるということは、滅多に起こることではない。
新潟県でも確実にこれまでと違うということ。


@kucyan
ベラルーシ死亡率で最も高い(50%以上)のは癌ではなく、心臓血管系の病気とりわけ子供の場合はセシウムの量がわずかであっても、心臓のリズムを壊し30ベクレル以上になると心筋に影響を及ぼし代謝機能を破壊、50ベクレルでは突然死の危険性がある。
バンダジェフスキー


@DaiNatsuMi
そういえば3月の出来事…息子のスイミングが一緒の子のママさんが、「茨城にいる義姉が今日朝起きてこないと思ったら心臓止まってたらしくて、あと少し発見が遅れたら死んでいた」と言っていた。


@blackmarmite
今の職場に長く勤めてきたが、ここにきて希望退職と突然死が、過去最大を記録したのはどう考えても偶然ではないだろう。
2013年01月24日


@kucyan
汚染地で起こる突然死について【何故ならセシウムが、心臓の筋肉に蓄積され、心筋を破壊するからです。そして確実に、ある程度の心筋が失われ、心臓が機能しなくなる。そして心臓発作で亡くなるのです。】 
クリス・バズビー教授


@asosatoshi
日本政府様へ 僕の二女は去年の秋に生まれ翌日死にました。
心臓の奇形でした。放射能は奇形の原因になると聞いた時があります。
娘の死の原因は分かりませんが、僕は毎日、このような悲しい思いをする親と子が増えないように祈っています。
どうか安全に留意して放射能を取り扱ってください。 阿曽聡より
2012年5月7日


@BQN_yachiyo
バズビー教授:心臓病が子どもたちを襲うだろう 。
 50ベクレルのセシウムが心臓の筋肉に取り込まれる。
たった1%の細胞が死滅しただけで、5%の心筋が機能を失う。
わずかなレベルのセシウムの影響を1年間受けるだけで、心臓細胞の2割が破壊される。


@kucyan
「20Bq/㎏で遺伝子に傷が付くおそれが高まると、それが60Bq/㎏で、心臓の半分の機能が、おかしくなる可能性が、強まると~僕も~今9Bq/㎏位のだから20までそんな遠くないじゃないですか」【山本太郎】 
10Bq/kg程度の蓄積でも特に心筋における代謝異常が起きる。
バンダジェフスキー


@olivenews
◎心筋梗塞の放射線起因性:判決は、放影研等の研究に基づく各種知見を総合すれば、心筋梗塞と放射線被爆との間には有意な関連を認めることができるとした上で、そこに一定のしきい値は存在しないと考えるのが合理的であると判示しています。
2012年3月9日
大阪地裁


@lllpuplll
【無関心の名言】「59歳知人女性の訃報。
心不全。知らせてくれた60代女性。
私「食べ物気をつけてたかなぁ」
60代女性「え?」
私「放射能心配じゃないですか?」
女性「え?」
私「放射能」
女性「え?」
私「放・射・能」
女性「え?」
私「ほうしゃのう」
女性「なんで?」」


@Lulu__19
心筋梗塞が放射能の影響ということを一般の人は知らないので、(政府もマスコミも言いません)みんな体調が悪くなって、おかしいと思っているうちに死んでいる。東京の状況です。


@roarmihoko
肥田先生「最近出たロシアの論文によればセシウム137は遅効性でなく、その場で即心臓の筋肉に支障をきたすとある。
福一に最初に入った労働者の方が2日後に、心筋梗塞で亡くなったのはそれではないかと今は思っている。」


富士山ニニギさんの日記の転載:
ニニギはたった200ベクレルの「医療被曝」で「突発性難聴」になりました。
心臓の検査で、放射性物質(確かセシウムとか言ってました)を注射して、それが心臓の筋肉に集中するため、その画像によって、動いている心筋を調べるのです。
「どうせこの先短いのだから」と、リスクのある「放射線注射」の承諾書にサインさせられたのです。
その時医者はリスクの話はしないで、「高い注射なので返品がきかないので、承諾が必要だ」と言ってごまかしたのです。
自己負担が3万円でしたので、10万円の注射です。
どうせ核廃棄物から造ったのでしょう。
 画像を見てみると、見事に放射性物質は心臓の筋肉に集まってました。
その間6時間です。
何とセシウムは摂取後6時間で全て心臓の筋肉に集まったのです。
今考えると恐ろしいことです。


右のボロボロの心筋細胞の汚染濃度は、たった45Bq/kgです。
心臓は他の臓器と違って、体内平均の10倍濃縮されるそうなので、体内平均は、たった4.5Bq/kgなのです。それは、60kgの人で、270Bq/kg汚染されたことになります。
それで、このボロボロの心筋細胞。というわけで、できるだけ、放射性物質の少ない食べ物を食べる必要があります。
そうしないと、皆さんが危険です。政府は国民を守る意思がありません。
ヨーロッパの科学者が気でも狂ったかというのは、こういう事をチェルノブイリの経験から知っているからです。
(中略)
 ほんの数ベクレルでも毎日食べると体内で蓄積して
危険な水準になると考えられるため、0ベクレルが基本です。
(セシウム137の濃縮レベルの上限は計算上150倍です。つまり、1日1ベクレル/kgとっていると、200日後に体全体で150ベクレル/kg汚染されることになります。体重60kgだとすると体内平均2.5Bq/kg 心臓25Bq/kgとなります)


@g69w
煽るのも嫌だ首都圏の危険は分からない。けれど、私の大切な友人の後輩が昨日急性心筋梗塞で亡くなった事を聞かされた。
それだけは事実なんだ。


@mi_nature
同感です。どこまで危険かよくわからない。でも大切な友人の、健康な息子さんが突然脳内出血で倒れて亡くなったのは事実なんです。


@Lulu__19
私は東京都武蔵野市から福岡に避難しました。
ひどい腰痛だった母は、避難してすぐに痛みが無くなった。
私の下痢も頭痛も不眠も無くなった。
東京の瓦礫焼却始まって知人は一家4人中3人心筋梗塞で突然死、友人の会社の課の中で2人突然死。これは全て真実です。


@Lulu__19
一家4人のうち3人心筋梗塞で死亡の件、言い忘れていましたが3人とも高齢ではない人で、最も高齢だった人が残されたのが衝撃的。
常識的に考えて通常ではありえない…
これは本当の知人なのでソースは私。
私が住んでいた吉祥寺を擁する東京都武蔵野市で実際に起きたこと。


@tarosandesuyo
今日は会社の忘年会だった、久しぶりに、42歳の川俣町の避難地区出身の同僚に会ったら、震災後彼の同級生が、もう4人も心筋梗塞で亡くなったと寂しい顔で言っていた。
健康には影響はないとレベルと言われているが実際はどうなのだろう。
私も心臓要注意、白内障ぎみ、甲状腺の数値異常の診断だが..


@TOHRU_HIRANO
突然すみません。健康に影響あります。
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元ゴメリ医大学長、バンダジェフスキー博士

『人体に入った放射性セシウムの医学的生物学的影響
―チェルノブイリの教訓  セシウム137による内臓の病変と対策 ―』
* 細胞増殖が無視できるかまったくない器官や組織(心筋)は、最大範囲の損傷を受ける。
代謝プロセスや膜細胞組織に大きな影響が生じる。
生命維持に必要な多くの系で乱れが生じるが、その最初は心臓血管系である。
* セシウムの平均蓄積量30.32±0.66Bq/kg にあるゴメリの、三歳から七歳の子供は蓄積量と心電図に比例関係があった。
* チェルノブイリ事故後のゴメリ州住民の、突然死の 99%に心筋不調があった。持続性の心臓血管病では、心臓域のセシウム137の濃度は高く、136±33.1Bq/kg となっていた。
* ミンスクの子供は20Bq/kg 以上のセシウム137濃度を持ち、85%が心電図に病理変化を記録している。
* ミンスクの子供で、まれに体内放射能が認められない場合もあるが、その25%に心電図変化がある。
このように濃度が低くても、心筋に重大な代謝変化を起こすのに十分である。
* 動物実験で、セシウムは、心筋のエネルギー代謝をまかなう酵素を抑制することがわかった。
* 平均40-60Bq/kg のセシウムは、心筋の微細な構造変化をもたらすことができ、 全細胞の10-40%が代謝不全となり、規則的収縮ができなくなる。


福島県が2020年度には県内、県外に避難している16万人をゼロにするという計画を発表
 2012年11月27日
無理だなぁ。
8年で避難者がゼロになるわけがない。
8年たてば甲状腺がん、白血病、心臓疾患が急増するだろう。
去年の統計で福島県が心臓疾患死亡率が1位だった。
一昨年は8位だったのに。
もう症状は出ている。

「警告」 微量のセシウムで心臓病多発
http://bit.ly/Ly0Hg4


以上、「泣いて生まれてきたけれど」コメントより
コメントより
 
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