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生い立ち東京都渋谷区幡ヶ谷の六号坂通り商店街近くのアパートで幼少期を過ごした。物心ついた頃には両親が離婚しており、母子家庭の長男として、四つ下の妹を含めた三人家族で育った。 橋下が小学2年生の時、暴力団組員の父親が自殺、母親が苦労して家計を支えた。小学5年の頃大阪府吹田市に引っ越し、1年後に大阪市東淀川区に移り住んだ。府営住宅から地元の公立学校に通った。実父については後述。 学生時代大阪市立中島中学校、大阪府立北野高等学校卒業。高校時代の同級生には自民党前衆議院議員の川条志嘉、NHKアナウンサーの藤井彩子がいる。中学・高校時代はラグビー部に所属。3年時には、第67回全国高等学校ラグビーフットボール大会大阪予選を勝ち抜き全国大会に出場。3回戦で伏見工と激闘を演じたものの終了間際にトライを許し、トータルスコア12-16で敗れベスト16で敗退した。後に高校日本代表候補に選ばれ東西対抗にも出場する。 高校在学中に、日本テレビの『全国高等学校クイズ選手権』に出場。地方予選で敗退したが、放送には映っていた。地方大会・事前番組・本放送に映ったことのある芸能人は橋下とザ・プラン9の浅越ゴエのみである。なお2005年に橋下が『いつみても波瀾万丈』に出演した際に、司会の福留功男は当時のVTRを見て「こんな所にも出ていて私はビックリしました」と驚いていた。 一方で、学校での成績は芳しくなく、現役時代には早稲田大学を2学部受験するも、不合格に終わった。 卒業後、一年間の浪人生活を経て、晴れて早稲田大学政治経済学部経済学科に入学。東京の六畳一間、風呂無し、トイレ共同のアパートで、後に妻となる高校の同級生の女性と同棲を始める。学生でありながら革ジャンの卸売などアパレル事業をしていた時に、不渡り手形をつかまされた経験で法律を勉強したことがきっかけとなり弁護士を志す。 弁護士・タレントとして1994年(平成6年)春に早稲田大学を卒業して、同年、司法試験に合格した。2年間の司法修習で法曹資格を得、1997年(平成9年)に大阪弁護士会に弁護士登録。 大阪市内にある樺島法律事務所に10ヵ月在籍。 弁護士2年目の1998年(平成10年)、大阪市内に「橋下綜合法律事務所」を設立して、示談交渉による解決を看板にする。 飛び込み営業なども行い顧客を集め、年間400~500もの案件を手がける。弁護士としての主な担当業務は企業コンプライアンス、M&A、エンターテインメント法、スポーツビジネスなど。 2008年(平成20年)2月6日の大阪府知事に就任した後は、事務所を法人化し別の弁護士が運営する。 芸能事務所タイタンと業務提携し、自身のタレントとしてのマネージメントを委託していた。また、同社の顧問弁護士も務めていた。 政治家として2007年(平成19年)12月12日、大阪府知事選挙に出馬することを表明。2008年1月府知事選に出馬した橋下は、八尾市の街頭で、「私は(八尾市の)○○地区に住んでいました。」と演説した。 2008年(平成20年)1月27日投開票の大阪府知事選挙で183万2857票を獲得し当選。 同年2月6日に大阪府知事に就任。2009年(平成21年)に、世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leadersの1人に選出された。 2011年(平成23年)11月、自らが掲げる大阪都構想などの政策実現を目的として、任期を3ヶ月余り残して大阪府知事を辞職、任期満了に伴う大阪市長選挙に立候補。 40年ぶりとなる府知事選とのダブル選挙、現職の平松邦夫(12月19日任期満了)との一騎打ち等が注目されたが、結果は750,813票と平松に20万票以上の差をつけて初当選。同年12月19日、第19代(公選制では9代目)大阪市長に就任した。市外在住者(豊中市在住)が大阪市長になるのは史上初であり、知事経験者が政令市長に就任するのも史上初である。 都道府県知事から市区町村長に転身するのは極めて異例である。 思想橋下徹の政策は基本的に、大前研一の主張する政策と同一である。大阪府特別顧問、2011年(平成23年)から大阪市特別顧問、大阪府市統合本部特別顧問を務める上山信一はマッキンゼー・アンド・カンパニー出身である。 週刊ダイヤモンドの大前研一との対談では橋下自身が学生時代から「平成維新」で勉強しているとべている。発送電分離や道州制食料と石油の海外戦略などは大前の主張と同一であり、道州制は大前の主著『平成維新』などでも記されている。
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