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日本国憲法の三大原則
 

日本国憲法の三大原則


 日本国憲法の三大基本原理としてよく挙げられるのは、基本的人権の尊重国民主権(主権在民)・平和主義(戦争の放棄)である。
 そして、この三大原理の根底にあるのは、「個人の尊重」「個人の尊厳」という個人の尊厳の原理である。個人一人一人が、人間として最大限の尊重を受けるからこそ、その基本的人権(自由)は尊重されねばならず、また、そのためには個人一人一人の考えを政治に反映させねばならないことから、国民主権(主権在民)が求められる。そして、個人が尊重される前提として平和な国家・社会が作られねばならないことから、平和主義(戦争の放棄)が採られる。

平和主義(戦争放棄)


 平和主義は、平和に高い価値をおき、その維持と擁護に最大の努力を払うことをいう。平たくいえば、「平和を大切にすること」である。現憲法が大戦直後に制定されたことから、前文や9条で強く示されている。平和主義は、多くの国で採用されている国際協調主義の一つと位置づけることができる。しかし日本では、歴史的経緯と第9条の存在によって、国際協調主義の枠を超えた平和主義と指摘されることもある。平和主義は、自由主義と民主主義という二つの重要な理念とともに、日本国憲法の理念を構成する。

国民主権


 国民主権とは、国家の主権が人民にあることをいう(日本国憲法においては国民と表現されている)。主権も多義的な用語であるものの、結局、国民主権とは国政に関する権威と権力が国民にあることをいうとされる。当初は主権が天皇や君主など特定の人物にないところに重要な意味があった。国民主権は、前文や第1条などで宣言されている。国民主権は、統治者と被統治者が同じであるとする政治的理念、民主主義の国家制度での表れである。もっとも、国民主権と民主主義は、全く同じことを意味するわけではない。

基本的人権の尊重


 基本的人権の尊重とは、個人が有する人権を尊重することをいい、自由主義のあらわれでもある。当初は、国家権力による自由の抑圧から国民を解放するところに重要な意味があった。基本的人権は、単に「人権」「基本権」とも呼ばれ、特に第3章で具体的に列挙されている(人権カタログ)。かかる列挙されている権利が憲法上保障されている人権であるが、明文で規定されている権利を超えて判例上認められている人権も存在する(「知る権利」、プライバシーの権利など)。 また、権力の恣意的な行使により個人の人権が抑圧されることを回避するため、統治機構は権力が一つの機関に集中しないように設計され(権力分立や地方自治)、個人が虐げられることのないように自由主義的に設計されているといわれる。

日本国憲法の構成1


 日本国憲法の本文は、11章103条からなる。大別して、人権規定、統治規定、憲法保障の3つからなる。人権規定とは、国民の権利などを定めた規定であり、主に「第3章 国民の権利及び義務」にまとめられている。このことから、第3章は、別名「人権カタログ」と呼ばれている。統治規定とは、国家の統治組織などを定めた規定であり、「第1章 天皇」「第4章 国会」「第5章 内閣」「第6章 司法」「第7章 財政」「第8章 地方自治」など多岐にわたる。憲法保障とは、憲法秩序の存続や安定を保つことであり、そのための規定や制度としては、憲法の最高法規性が宣言され、公務員に憲法尊重擁護義務が課され、憲法改正の要件を定めて硬性憲法とするほか、司法審査制や権力分立制なども挙げられる。

人権規定


 人権規定は、主に第3章にまとめられている。人権は、包括的自由権、法の下の平等、精神的自由、経済的自由、人身の自由、受益権、社会権、参政権などに大別される。

包括的自由権と法の下の平等


 包括的な人権規定、包括的自由権である生命・自由・幸福追求権がある。プライバシーの権利、自己決定権などの新しい人権は、同条により保障される。また、14条では法の下の平等が定められる。同条2項は貴族制度の禁止と栄典に伴う特権付与の禁止を定める。同条のほか、24条では両性の平等が、44条では選挙人資格などの平等が定められている。

精神的自由


 精神的自由のうち、内面の自由としては、思想・良心の自由、信教の自由、学問の自由がある。20条2項は89条と共に、政教分離原則を定める。学問の自由からは、大学の自治が導き出される。表現の自由は21条に定められる。同条では、明文にある集会の自由・結社の自由・出版の自由や言論の自由のほか、知る権利、報道の自由・取材の自由、選挙運動の自由など、重要な人権が保障されている。また、同条2項では、検閲の禁止と通信の秘密が保障されている。

経済的自由


 経済的自由としては、まず22条1項では、職業選択の自由を保障している。ここからは営業の自由が導き出される。また2項と共に、居住移転の自由、外国移住の自由、海外渡航の自由、国籍離脱の自由も保障されている。29条では、財産権が保障されている。

人身の自由


 人身の自由は、まず18条で、奴隷的拘束からの自由が定められる。31条では適正手続の保障が規定される。刑事手続に関する詳細な規定は、日本国憲法の特徴とされる。これには、不当な身柄拘束からの自由、住居等への不可侵など被疑者の権利と、公務員による拷問及び残虐な刑罰の禁止、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利、証人審問権・喚問権、弁護人依頼権、自己負罪拒否特権、刑罰不遡及、二重の危険の禁止など被告人の権利がある。

日本国憲法の構成2


受益権


 受益権とは国務請求権ともいう。国民が国家に対し、行為や給付、制度の整備などを要求する権利である。受益権には、請願権、裁判を受ける権利、国家賠償請求権、刑事補償請求権などがある。

社会権


 社会権とは、個人の生存・教育・維持発展などに関する給付を、国家に対し要求する権利である。社会権には、生存権、教育を受ける権利、勤労の権利、労働基本権などがある。

参政権


 参政権とは、国民が政治に参与する権利である。15条で、選挙権・被選挙権・国民投票権などの参政権を保障している。選挙権は、普通選挙、平等選挙、自由選挙、秘密選挙、直接選挙の5つの要件(原則)を備えなければならない。

統治規定


 日本国憲法は権力分立制(三権分立制)を採る。権力分立とは、国家の諸作用を性質に応じて区別し、それを異なる機関に分離し、相互に抑制均衡を保つことで権力の一極集中と恣意的な行使を防止するものである。権力分立制は、自由主義をその背後の原理とする。通常、立法権・行政権・司法権の権力に区別する。日本国憲法では、立法権は国会に、行政権は内閣に、司法権は裁判所に配される。

国会


 国会は国権の最高機関とされ、唯一の立法機関とされる。国会は衆議院と参議院の二院からなる(。二院のうちでは、衆議院の優越が定められている。法律案は、両議院で可決したときに法律となり、予算案・条約の承認も国会の権能である。また、両議院には各々、内部規律に関する規則制定権がある。

日本国憲法の構成3


内閣


 内閣は行政権を担う。内閣は、内閣総理大臣と国務大臣からなる合議制の機関である。内閣の首長たる内閣総理大臣は国会議員の中から国会により指名され、天皇に任命される。国務大臣は内閣総理大臣が任命するが、その過半数を国会議員の中から選ばなければならない。内閣は、一般行政事務を行うほか、条約を締結し、予算案を作成し、政令を制定するなどの権限を行使する。また、内閣は、天皇の国事行為に対し、助言と承認を行う。内閣は、天皇への助言と承認を通し、衆議院の解散権を行使する。内閣は、最高裁判所長官を指名し、その他の裁判官を任命する。

裁判所


 すべて司法権は、裁判所に属する。裁判所は最高裁判所および下級裁判所からなる。特別裁判所の設置は禁じられている。最高裁判所長官は内閣の指名に基づき、天皇が任命する。その他の裁判官は、内閣が任命する。特に、下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿により、内閣が任命する。最高裁判所の裁判官は、任命後初めて行われる衆議院議員総選挙とその後10年ごとの衆議院議員総選挙において、国民審査を受ける。下級裁判所の裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。裁判所には、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則制定権がある。

財政・地方自治


 第7章は財政に関する事項を定める。国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて行使される。また、租税法律主義、内閣の予算案作成権、国の収入支出の決算と会計検査院に関する事項などが定められる。なお、皇室経済に関しては、皇室費用の予算計上は第7章に、皇室への財産譲り渡し、皇室の財産譲り受け、もしくは賜与に関する国会の議決は第1章の8条に定める。

憲法保障


 憲法保障とは、憲法秩序の存続や安定を保つことである。そのための規定・制度としては、まず憲法の最高法規性が挙げられる。98条は、明文で憲法の最高法規性を定める。この形式的な最高法規性の定めを、97条の最高法規性の実質的根拠と、96条の硬性憲法の定めが支える。また、99条は公務員に憲法尊重擁護義務を課している。さらに、権力分立制や違憲審査制も憲法保障を図る制度である。

憲法改正


 憲法改正手続は、96条で定められている。まず、憲法改正案は、「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」により「国会」が発議する。この発議された憲法改正案を国民に提案し、国民の承認を経なければならない。この承認には、「特別の国民投票又は国会の定める選挙」の際に行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。この憲法改正案が、国民の承認を経た後、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

制定史


大日本帝国憲法


 明治維新により近世の幕藩体制・封建制社会から復古的な天皇制・国民国家へと脱皮した日本国は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法の制定により、近代市民国家へと変貌した。大日本帝国憲法は神権的な天皇制と古典的自由主義・民主主義理念が共存し、国家の統治権が天皇にあることとともに国民(臣民)の権利が定められ、議会政治の道が開かれた。

日本国憲法の制定


 日本は、1945年8月14日の御前会議によって、ポツダム宣言を受諾。日本は連合国に全面的に降伏した。ポツダム宣言や被占領国の法律を尊重することを定めたハーグ陸戦条約に即して、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) は、日本が大日本帝国憲法を改正するように要請した。

議論


民主主義


 民主主義について「民主主義が最善であるのか」と「直接民主制と間接民主制どちらが優位なのか」という議論がある。

民主主義が最善であるのか


 民主主義制度が優れた制度かどうかについて、古来から議論がある。しかし、絶対王政、ファシズム、共産主義などとの競合に悉く打ち勝ち、最終的な勝利者になっていることは明白であり、「人類が歴史上生み出してきた政体」という条件が付くならば最善の制度であると結論できる。

直接民主制と間接民主制


 国民が直接政治に参加する直接民主制と、代表者を通じて間接的に参加する間接民主制についても、古来から議論がある。日本では、1999年に地方分権推進一括法が制定されたこともあり、特に地方自治体での住民直接投票の取り扱いにおいて表面化している。

制定法理


 憲法改正限界説の立場からは、改正の限界を超えた点については一般的に「八月革命説」によって理論的に説明される。この説はポツダム宣言の受諾を法的な一種の革命と捉えて、その時点で主権の委譲があったと説明する。なお、憲法改正無限界説によれば、改正手続きが正しく行われれば主権の所在を変更することも可能であるから、主権が移動したこと自体は特に問題とされない。

憲法改正手続


 日本国憲法の改正のための要件は、第96条に規定されており、通常の立法のための要件よりも加重されたものとなっている(硬性憲法)。それによれば「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」に基づき国会が憲法の改正を発議し、国民投票による「その過半数の賛成」による承認を必要とするものとされている。当該国民投票を実施するための細則については新たに法令によりこれを定める必要がある(国民投票法案)。
 
日本国憲法全文
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 マスコミの戦争責任を考える

マスコミの戦争責任を考える(1)

8月15日。毎年この日になると、マスコミは決まって第二次世界大戦の戦争責任の話題を取り上げます。天皇、軍部、政治家、財閥など、さまざま人たちや組織について、さまざまな角度から。そして、決まってこう付け加えます。
「我ら言論人は、軍部の執拗な言論弾圧によって屈服してしまった、仕方なかった」と。ここでいうマスコミとは、戦前・戦中にあり、いまでも存在し続ける新聞社と通信社、そしてラジオ局を指します。
 悲惨な結果を招くことがあらかじめ分かっていた「大本営発表」を臆することなく大々的に報じ、「挙国一致」「尽忠報国」などの大きな見出しを躍らせたマスコミは戦後、自らの戦争責任を「国民と共に立たん」といった美辞麗句で覆い隠してしまいました。
戦争賛美に荷担していたマスコミの誰ひとりとして、戦争責任を問われた者はありませんでした。また、自らの戦争責任を進んで償うマスコミ人もいませんでした。
 第二次世界大戦中の日本で、約 250万人の尊い命が失われました。また、A戦犯で7人、B・C級戦犯をあわせると1000人近くの人々が戦争責任を負わされて処刑されました。戦争を推し進めた中枢部に、マスコミの姿が確実にありました。戦前・戦中、権力の喧伝機関と化していたマスコミは、自称する社会の木鐸とは程遠い存在でした。
 なぜ、マスコミだけが戦争責任を回避することが可能だったのでしょうか。戦争に荷担し、その責任を隠蔽し続けてきたマスコミがなぜ今なお存在しており、政府が決める再販制度や特殊指定などの制度的な保護を受け続けているのでしょうか。この日を期に、戦前・戦中の軍部とのかかわりや、戦後のGHQとの関係を中心に、マスコミの歴史を振り返ることで、マスコミの戦争責任についてみなさんと一緒に考えていきたいと思います。私のマスコミへの根源的な問いは、その公共性と独立性についてです。

第二次世界大戦時までの言論に関する法体系

 一般に、政府の言論弾圧によって、マスコミは戦争に荷担せざるを得なくなったと言われています。はたして、これは事実でしょうか。マスコミ自らが戦争に荷担していったことはなかったのでしょうか。まず、明治から敗戦までの言論についての法体制をみてみましょう。明治憲法は第29条で「法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由」を認めていました。この法律とは新聞紙法(1909年)、出版法(1893年)、治安警察法(1900年)、軍機保護法(1899年)などが挙げられます。新聞紙法の第23条は「内務大臣ハ新聞紙掲載ノ事項ニシテ安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スルモノト認ムルトキハ其ノ発売及頒布ヲ禁止シ必要ノ場合ニ於テハ之ヲ差押フルコトヲ得」と、新聞の発禁処分を定めていました。この新聞紙法は明治初期に新聞発行を許可制とした新聞紙印行条例(1869年)、皇族への不敬を処罰することを盛り込んだ讒謗律(1875年)、「政府の変革、国家の転覆の論を掲載し、騒乱を煽動」することを禁じる改正新聞紙条例(1883年)の流れをくみます。
 明治期から敗戦までの日本国内の言論は、これらの法律によって枠組みが決まっていました。現在とは違って、政府による言論弾圧が相当厳しかったことがうかがわれます。一方で、矢継ぎ早に言論統制に関する多数の法律が施行されたのは、権力に立ち向かうジャーナリズムが存在したことの証でもあります。

消滅した明治時代の反骨ジャーナリストによる独立ジャーナリズム

 明治期の言論人は旧幕藩体制の士族階級出身者が多くを占めました。特に、戊辰戦争で幕府側についた東北諸藩や在野した薩摩藩の西郷隆盛派といった明治政府に対抗する勢力から、剣をペンに持ち替えた気骨あるジャーナリストが多く登場しました。明治初期から中期にかけて、陸羯南の「日本」や宮武外骨の「滑稽新聞」などは、発禁処分や投獄をもものともしない反骨ジャーナリストによる独立不羈を貫き通したジャーナリズムといっても過言ではありません。日本のジャーナリズムの歴史を振り返ると、日本の言論界の黎明期こそが黄金期だったようです。
 しかし、結局は日本国内ではペンは剣にかないませんでした。政府批判を繰り返す「大新聞(おおしんぶん)」といわれた政論新聞や、反骨ジャーナリストによる「独立新聞」は、政府の度重なる言論弾圧によって次々と抹殺されてしまい、今では一つとしてその姿をとどめることはありません。代わりに生き残ったのが「小新聞(こしんぶん)」といわれる商業新聞です。これは、一般庶民や婦人女子を対象にした娯楽本位のものでした。朝日新聞や読売新聞など、戦前・戦中を生き延び現存する大手新聞社の出自のほとんどがこの「小新聞」です。
 また、毎日新聞は福地源一郎の「東京日日新聞」を淵源とします。これは明治政府の官報という性格のものでした。ちなみに福地は、明治維新前は幕府側に付き、維新後は薩長の明治政府に寝返った人物で有名です。明治政府を徹底的に批判した明治人ジャーナリストとして名を残す宮武外骨は福地を「ユスリ記者」と呼称し、いまでいうブラック・ジャーナリストの典型だとはき捨てました。

ジャーナリズムの終焉、朝日新聞の「白虹事件」

 ここで朝日新聞のいわゆる「白虹事件」を例に、なぜ朝日新聞がその新聞綱領の中で「不偏不党」を掲げているのかについて、お話しします。1918(大正7)年、富山で起きた米騒動をきっかけに、多くのマスコミは当時の寺内内閣の反対運動を繰り広げました。それに対し政府は、「安寧秩序を破る」新聞紙法違反だとして取り締まりの方針を打ち出しました。
 そんな矢先に「白虹事件」が起きました。この年の8月26日付「大阪朝日新聞」夕刊の記事に「白虹日を貫けり」というくだりがありました。これは中国の古典にある一節で、そのような奇端があるのは、兵乱の前兆であるというたとえです。これに目を付けた警察はこの夕刊を発売禁止処分にしたうえで、新聞紙法違反だとして検察に告発しました。これは権力による露骨な言論弾圧以外の何ものでもありません。
 これに対し、大阪朝日新聞や他のマスコミはこの事件を一行すら報じることはありませんでした。自ら言論の自由を放棄してしまったのです。その後、その年の9月28日に朝日新聞の村山龍平社長が暴漢に襲われる事件が起きました。これは朝日の新聞紙法違反事件を口実とする右翼団体による犯行だったのですが、朝日はこの事実も報じることはしませんでした。
 そして、村山社長の辞任に始まり、鳥居素川編集局長、長谷川如是閑社会部長、大山郁夫氏ら、時代をリードしていたジャーナリストの退社処分の発表が続いた後の12月1日、朝日新聞は編輯綱領を発表しました。以下、その一部を紹介します。
「一、上下一心の大誓を遵奉して、立憲政治の完美を裨益し、以て天壌無窮の皇基を護り、国家の安泰国民の幸福を図る事」
「一、不偏不党の地に立ちて、公平無私の心を持し、正義人道に本きて、評論の穏健妥当、報道の確実敏速を期する事」

「客観報道」という名の「傍観報道」

 この綱領の文面からも、政府と朝日新聞の裏取引があったことが容易に想像できましょう。朝日新聞は白虹事件をきっかけに言論弾圧に屈し、身内を切り捨て、ジャーナリズムの精神まで投げ捨てて、企業の存続を図りました。新聞紙法違反に問われた裁判では有罪判決が下されましたが、朝日新聞は控訴せず、逆に新社長となった上野理一氏は原敬首相に面会し、今後はこのような「過失」を繰り返さないと平身低頭しました。
 この頃、ジャーナリズムの用語として現在流通している「客観報道」という言葉がうまれました。これは政府による言論弾圧から逃れるための一種の方便でした。「批判しているのではない、事実を伝えているだけだ」と。つまり「客観報道」という言葉は、消極的な意味での政治的な抵抗、あるいは自己保身のための道具として生まれてきたのです。客観報道の語意は傍観報道というのが妥当なようです。
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 マスコミの戦争責任を考える(2)

政府の情報統制機関の系譜

 明治期から敗戦までの間、数々の言論統制に関する法律が施行されました。マスコミは、これらの法律を駆使して言論を統制してきた政府機関が唯一の悪であり、人々を戦争に駆り立てた、と主張をしてきました。そして、マスコミは軍部独裁の被害者という構図で自身を語ってきました。私の疑問は、マスコミが軍部・言論統制機関に迎合し、両者が一体となって市民を欺いていなかったのかということです。
 政府初の言論統制機関とされる情報委員会は、 1936(昭和11)年に設立されました。これが後々の悪名高き内閣情報局(1940年)に発展します。情報委員会の設立趣旨はというと、各省庁間の「連絡調整」と独自の情報宣伝活動、国策通信社の同盟通信社(現在の共同通信社と時事通信社の母体)の監督指導にありました。この頃、北一輝を思想的支柱としたナショナリズムの機運が国内で急速に広まりました。これは、天皇を国家の中心であることを強調し、議会政治・資本主義経済・国際協調外交の打破を求める、軍部との結びつきの強い性格のものでした。
 情報委員会はその後の日中戦争勃発以降、1937年に内閣情報部に改組され、その後の 1940年に内閣情報局と政府中枢部にある言論統制機関に肥大化していきました。内閣情報局は内閣情報部に外務省情報部、陸軍情報部、海軍省海軍軍事普及部、内務省図書課をすべて統合したものです。企画調査、新聞・出版・放送の指導・取り締まり、対外宣伝、検閲、文化宣伝をそれぞれ行う5部17課で550 人を擁する巨大な組織でした。

戦争を美化し、国民精神総動員運動を推進したマスコミ
 情報委員会が設立された翌年の1937年7月、蘆溝橋事件をきっかけに日本は日中戦争に突入しました。前後して、政府は「尊厳ナル我国体ニ対スル観念ヲ徹底」させることを旨とする国民精神総動員運動を仕掛けました。当時の近衛内閣は主要な新聞社・通信社の幹部や記者を集め、この運動への協力を求めました。同盟通信社の岩永祐吉社長がマスコミを代表してこれに応じることを表明しました。さらに、「中央公論」「改造」「日本評論」「文藝春秋」などの出版社や、映画会社も同様に協力を誓いました。
 そして、この運動を実践していく中心となる組織として国民精神総動員中央連盟が設立され、朝日新聞社の緒方竹虎氏、毎日新聞社の高石真五郎氏、同盟通信社の古野伊之助氏が理事に就任しました。戦争を犯してゆく政府にマスコミが積極的に協力を誓ったのです。
 しかし、マスコミが戦争を賛美するのはこのときが始めてではありませんでした。その兆候は明治後期の日露戦争時からありました。戦争に消極的だった政府を煽って戦火を拡大させたのは、マスコミと言われています。戦争後には「神風が吹いた」などと吹聴する傍ら、簡単な自己反省・批判を紙面に掲載しました。マスコミがある出来事や人物を煽ったり、持ち上げたりして、しまいに突き落とすやり方は今も昔も変わりません。
 言論統制機関が現れる以前のマスコミによる戦争賛美の一例を紹介しましょう。国民精神総動員運動が始まる約5年前の1932年2月、上海郊外で敵の鉄条網を突破しようと戦死した兵士を英雄として持ち上げる記事が、朝日新聞や毎日新聞に掲載されました。亡くなった兵士らを朝日は「肉弾三勇士」、毎日は「爆弾三勇士」とそれぞれ命名し、これがきっかけとなり、ラジオ番組や人形浄瑠璃、映画など、戦争を賛美する多くの作品が制作され、商業的な成功を収めました。政府からの要請以前に、マスコミが自発的に戦争を賛美する素地があったことが覗われます。
 ここでは、それ以上に重要な論点があります。それはマスコミが戦争をも、金儲けの道具にしていたことです。この点については後ほど詳しく述べますが、新聞社や雑誌社、映画会社などのマスコミが、軍部にすり寄り、戦争に乗じて莫大な利益を上げていたという点に関しては多くの人々が知っておくべきです。

「小ヒムラー」「日本思想界の独裁者」として戦後スケープゴートされた内閣情報局情報官・鈴木庫三少佐

 戦時中の言論統制を語るに、無くてはならぬ人がいます。この人にスポットライトを当てることで、マスコミと言論統制機関の一筋縄ではいかない関係がよく分かります。それは「小ヒムラー」「日本思想界の独裁者」と呼ばれた内閣情報局情報官・鈴木庫三少佐その人です。戦後1949年に出版された『言論弾圧史』(日本ジャーナリスト連盟編)の一節を紹介しましょう。
 「・・・情報官鈴木庫三少佐らは、(中央公論社の)国策非協力を痛烈に叱責、自由主義的偏向の清算に基づく編集方針の根本的な切り替えを強談した。・・・このとき鈴木少佐は満面に朱をそそぎ、サーベルの柄を掴んで、憤然立ち上がり、『なにをいうか、そういう考えをもっている人間が出版界にまだたくさんいるから、いつまで経っても国民は国策にそつぽを向いているのだ。・・・君らは社内の後輩に向かつても、いつも自由主義的方針を宣伝して居るではないか。隠しても駄目だ、君らの足下の社員からそういう投書が自分の許に来ているのだ。そういう中央公論社は、ただいまからでもぶっつぶしてみせる!』と絶叫しつづけた」。
 このほかにも『日本評論』編集部出身の美作太郎が記した『言論の敗北』(三一新書、1959年)など、鈴木少佐から恫喝されたとされる岩波書店、講談社、実業之日本社などの関係者による鈴木少佐像は言論の独裁者のごとく描かれています。また、1949年4月から毎日新聞に連載された石川達三の『風そよぐ葦』では鈴木少佐を佐々木少佐に置き換え、言論弾圧にあらがったマスコミの姿を描きました。ここでは「軍部=野蛮人・非論理的悪」に対峙する「マスコミ=インテリ・論理的正義」といった単純化されすぎた二項対立の構図がありました。
 しかし、現実は異なります。例えば、大正期以降「反軍的」とされた朝日新聞社でさえ、情報局との関係一つとっても、これほど単純なものではありませんでした。情報局内部で海軍と陸軍の対立があり、朝日はその対立構造を利用して、自らの利益の源泉となる新聞用紙獲得を目的に、陸・海軍それぞれに便宜を図っていました。つまり、陸・海軍の間に入り漁夫の利を得ていたのです。この様子については佐藤卓己著『言論統制』(中公新書、2004年)にある「『紙の戦争』と『趣味の戦争』」の章を参照してください。
 『言論の敗北』や『風そよぐ葦』など鈴木少佐を糾弾した著書の出版時期に注目してください。鈴木少佐の口が閉ざされた後です。言論ファッショの親玉という烙印を押された鈴木少佐は戦後、亡くなるまで熊本・阿蘇山のふもとで、反論の機会が与えられることなく、周縁に追い込まれました。佐藤卓己氏の研究によれば、鈴木少佐は貧しい家庭に生まれた苦労人であり、清貧・勤勉をモットーとしており、ブルジョア的奢侈な生活を送るマスコミや軍幹部を嫌悪していた姿が浮かんできます。たたき上げの鈴木少佐や陸軍兵の出身のほとんどが農民・労働者階級であり、一方の軍将校やマスコミの多くは大卒・ブルジョア階級出身だったことを押さえておかねばなりません。
 戦後、言論弾圧を強行する軍部対それに抵抗するマスコミという、極度に単純化された虚構に従って、日本思想界の独裁者、鈴木少佐像がマスコミによって作り上げられたのでした。これこそ、言論ファッショ以外の何ものでもありません。マスコミが描いた軍部・内閣情報局による言論弾圧の記述には懐疑的・批判的にならざるを得ません。
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佐藤卓己著『言論統制』(中公新書、2004年)

マスコミの戦争責任を考える(3)
なぜマスコミは「言論統制」や「新聞統合」に従ったのか

マスコミが戦後、「言論独裁者・鈴木少佐」という虚像を作り上げ、それに対して強烈に批判を繰り返すことで、自らの戦争責任を回避してきた構図はお分かりいただけたと思います。「A級戦犯」「東条英機」「軍部」という記号も同様で、マスコミが自身の正当化の道具として利用しているのではないでしょうか。
 さて、1937年の日中戦争勃発以降、政府は新聞社への圧力を強めてきたわけですが、その方法は主に2通りありました。一つはそれぞれの新聞社への法による「言論統制」、もう一つは新聞業界全体に再編を自主的に促す「新聞統合」でした。前者も後者も一言で言うと、マスコミに対しての「アメとムチ」の政策といえます。これらは今時の言葉で表すならば、政府・軍部とマスコミのいずれも「勝ち組」になれるウィン・ウィンの策略だったのです。つまり、「新聞統合」とは、新聞を統合して情報操作を容易にしたい政府と、新聞業界内の競合他社を減らし自社の利益を拡大したいマスコミの利害が一致した結果だったのです。そこでの「負け組」、泣きを見たのは市民だったことはいうまでもありません。

言論統制で市民の犠牲を横目に、ほおかむりしたマスコミ

 内閣情報部が設置された後、言論統制として厳しい検閲が行われていたことは確かです。しかし、情報部がすべての新聞・雑誌記事を事前に検閲していたのではありませんでした。法を拡大解釈し「示達」や「警告」そして、今現在でも各記者クラブで行われている「懇談」という技法で統制を行いました。これらは政策の「ムチ」の部分です。一般的な言論弾圧史観では、戦前の伏せ字こそが言論弾圧の証しだとする説があります。しかし、伏せ字をされるということは、原文では弾圧をものともしない勇気ある言論が存在していた証拠でもあります。ひるがえって、校正前の事前検閲こそが「検閲の存在すら隠蔽する検閲」であり、より一層悪質な言論弾圧でしょう。
 ただ、当時のマスコミは事前検閲される前に、自ら進んで言論を投げ捨てていたのです。今回の調査では、はっきりした原因はわかりませんでした。察するに、マスコミには社会学者、ミッシェル・フーコーの『監獄の誕生』に出てくるパノプティコンの囚人のような心境があった。つまり、監視されているという意識が常にマスコミ内部にあったために、軍部に対して不利になるような記事の掲載を自らためらってしまうような感覚を抱いていたのかもしれません。多くの市民が戦場でなぶり殺されているのをはた目に、自己保身のためにマスコミが安全な場所でほおかむりしていたとすれば、噴飯ものではすまされません。それこそ、ジャーナリズムをつかさどるマスコミの正統性にかかわる重大な問題です。

紙・カネ欲しさに、市民の命を差し出したマスコミ

 一方で、政策には「アメ」の部分がありました。マスコミという営利企業にとって、その内部に損得勘定があったことは否定できません。これは、きわめて合理的な感覚です。マスコミは、自らが宣伝するような「公共性」をモットーに常に市民の側にある神聖な組織ではありません。経営的にみれば、新聞社といえども利益の極限化を追求する営利企業であり、その本質は広告媒体です。
 これは、収入の多くを広告に頼った新聞社の収益構造を見れば一目瞭然です。とはいえ、このような数字をなかなか市民が手に入れることができませんし、マスコミ自らが進んで公表することはまずありません。公開企業に財務情報の公開とその説明責任を迫りながら、自らについては戦前から今日まで一切していません。マスコミは自らを「公器」であると吹聴しながら、その実、得体の知れないブラックボックスのような営利企業なのです。
 言論統制といった屈辱的な政府の圧力にマスコミが屈した背景には経済合理的な論理がありました。それは差し止め命令による損失と、政府への協力で得られる利益を秤にかけるという論理です。政府に協力すれば新聞用紙の供給で有利になり、それが企業利益に直結していたのです。
 日本の新聞紙原料のほとんどは輸入に頼っていたため、満州事変勃発ころから、日に日に新聞用紙の枯渇問題が深刻化していきました。新聞各社は新聞用紙の供給を確保するのに四苦八苦していたのです。用紙不足が決定的になったのは1938年からです。こうなるとマスコミ各社はこぞって戦争賛美の方向に傾いてしまいました。マスコミは市民を犠牲にしてまで、自らの利益を確保する方向に暴走し始めたのです。
 例えば1937年の朝日新聞に掲載された中国での戦勝報道を例に取ると、「肉弾突撃敵陣を割る 紅焔の中に日章旗 壮絶種村軍曹の人柱」「死を以て断つ導火線 爆発直前万歳」「おお軍国の父!愛児戦死の悲報を胸に秘めてその職務去らず」といった戦争と戦死を美化する見出しが並んでいました。
 政府の弾圧に屈したというより、マスコミが利益というアメに吸い寄せられたと私は見ています。カネに群がるマスコミの姿は「新聞統合」の内容とあわせて、後ほどご説明いたします。
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 マスコミの戦争責任を考える(4)
「新聞統合」とは何を意味したのか

一つ一つの言論への弾圧が進む一方で、1938年から新聞業界全体への弾圧も同時進行してきました。それが、今となってマスコミが大声で批判する政府による「新聞統合」と呼ばれる業界再編策です。さて、ここで立ち止まってこの「新聞統合」が持つ意味について考えてみましょう。マスコミ側の言い分はこうです。多種多様な新聞社が統合されると言論の多様性が失われ、かつ、弱者が窮地に追い込まれる状況になる。詰まるところ、民主主義の原理に反する。確かに正論です。
 ただ、理念と行為は往々にして乖離します。誰もがハッピーになれるウィン・ウィンの戦略という言葉が現代でもてはやされていますが、これは経済成長論を前提とします。戦時中など、経済全体がシュリンクしている状況では、競争は一層激化し、誰かがうまくいけば、誰かがばばを引くのが世の常です。「勝ち組」と「負け組」が峻別されるのもこのような時期です。この考え方から戦時中の「新聞統合」という業界再編を見ていくことにしましょう。

「新聞の公共性」というムチ

 1930年代半ば、内閣情報部や陸軍はマスコミが乱立すると、その内容が通俗的に傾いてしまうことを危惧(きぐ)していました。とはいえ、その頃の日本でも一応、議会制民主主義が存在していました。マスコミの乱立状況を法で縛ろうとすれば、議会での紛糾は避けられません。結局、軍部はこの状況を法で縛ることまではしませんでした。言論統制を強める政府側でも、内務省、外務省、陸軍、海軍、内閣情報部などその内部での対立・抗争があることは前にお話ししました。軍部に代わってマスコミの統制に乗り出したのが、内務省でした。しかし、内務省が新聞社を統廃合させる権限までは当然、持ち得ていませんでした。そこで利用したのが「行政指導」という非公式な手法です。
 ここでも政府は、パブリックとプライベートという対立する2つの概念をうまく利用した「アメとムチ」の策術を用いました。表向きには「新聞の公共性・公益性」というムチを用意し、裏では「私益の追求」というアメを手配しました。この時代の公共性といえば、国家への忠誠、国益第一主義といったものです。欧米では 17世紀以降の市民革命を経て、市民社会の中で公共性という概念が醸成されてきました。一方、日本では明治期から現代まで、お上としての「公」と家族・身内を含む「私」の間にある「公共」というものについて、人々の間であまり意識されることはなかった、あるいは、お上が与えてくれるものという感覚があったのではないかと私は考えています。
 1938年から1941年にかけて「新聞統合」が行われた当時の公共性とは、幕藩体制時の殿様と家来の関係の中で生まれた、お上への忠誠、あるいは藩全体への奉仕を指していたのでしょう。公益という概念には、国策のために犠牲となることもためらわない気分をも包含していたのではないでしょうか。この感覚にマスコミは乗りました。この背景には、言論へのあきらめと、「もうけ」への希望が混じり合った感覚の中で、お上(政府)の顔色を窺い、乗ずることのそろばんをはじき、市民を納得させる、あるいは欺くことを考える、といった関数を考えながらの方程式がありました。そこから導いた解が「新聞報国」「新聞新体制」というテーゼだったのです。

「プライベートな利益」というアメ
 「新聞報国」「新聞新体制」というマスコミが示した「公共性」の標語が「ムチ」の部分の結果ならば、「アメ」の部分の結果はどのようなものだったのでしょうか。ひとことで表すなら、「新聞統合」という名によって、マスコミ自らが、「マスコミ」という排他的な特権階級を生み出したことにほかなりません。「プライベートな利益の追求」という補助線を引きながら考えていきましょう。新聞統合は、「悪徳不良紙の整理」(1938年-1940年)、「弱小紙整理」(1940年-1941年)、「一県一紙への統合」(1941年以降)の3段階を踏んで行われました。1938年当時739紙あった新聞がこの短い3年間で、108紙にまで減少し、敗戦時までには57紙に統合されました。
 この3年間は新聞社にとってまさしく生き残り競争であったことは間違いありません。そこで利用されたのが資本の論理です。大きい者が小さい者を飲み込む。現代ではマスコミが忌み嫌うこの論理がまかり通り、「悪徳不良紙」や「弱小紙」が消滅していきました。ただし、「悪徳不良」や「弱小」といったものが、言葉通りであったかは非常に怪しいものでした。しかし、この論理にも限界がありました。そこで、内閣情報局の指導のもと誕生したのが社団法人日本新聞連盟(1941年)です。新聞の生産・流通を合理化させるのが趣旨のこの団体は、各新聞社への用紙配給率を決定し、専売制をとっていた新聞販売に統合一元化、共同販売制の導入を促しました。
 これで弱小紙整理と一県一紙体制を築いていったのです。これが現在の、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞の「全国紙」、北海道新聞や中日新聞、西日本新聞などの「ブロック紙」、そして「地方紙」といった、新聞業界での3層構造の原型になっています。

「新聞統合」に乗じて記者クラブ制度を変質させ、肥大化したマスコミ像
 さらに、記者クラブを整理統合し、個人単位のクラブ加入を認めることを廃止しました。記者クラブの加入資格を基本的に新聞社・通信社とし、加入新聞社数の制限も加えました。この悪しき風習は現代の記者クラブ制度にもそのまま引き継がれています。
 この結果、言論の多様性が失われたのはいうまでもありません。これを期に各新聞に掲載される情報の画一化が急速に進みました。つまり、権力側の情報操作をマスコミ全体でよしとしてしまったのです。現在、どの新聞を眺めても横並びの紙面なのはこのためです。逆に、情報を一手に引き受けることを約束された生き残り組のマスコミは、「新聞統合」という半ば自主的な業界の構造改革によって効率的に販売部数を拡大し、急激に肥大化していきました。
 例えば、朝日新聞は1931年の満州事変勃発時では約150万部の規模でしたが、日中戦争が開始された1937年には250万部弱、太平洋戦争突入時の 1941年には当時業界ナンバーワンの座にあった毎日新聞と肩を並べる350万部弱、翌42年には372万部の業界一位の座にのし上がりました。2006 年7月14日付朝日新聞の「見失った新聞の使命」という特集記事で、この理由を「人々が情報を求める非常時に、新聞は部数を増やす」と解説しましたが、これは主な要因ではありません。その実は、プライベートな利益を追求する過程で利用した「新聞統合」での結果だったのです。
 マスコミは「新聞統合」という道具によって、私益を拡大させることが可能になり、そして、肥大化しました。マスコミはよく「販売部数」が市民からの信頼のバロメーターだと主張しますが、どうやら、今あるマスコミの販売部数の原因は市民からの信頼だけではなさそうです。しかも、販売部数を伸ばす過程で記者クラブ制度を変容させ、自らの既得権益構造を作り出したことは大きな問題です。マスコミ自らが言論の多様性を失わせたといっても過言ではないからです。
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マスコミの戦争責任を考える(5)
スポーツを戦争賛美と販拡活動の道具にしたマスコミ

この原稿を書いている06年8月半ば、例年のごとく高校野球の熱戦が甲子園球場で繰り広げられています。みなさんもご存じのように、8月15日正午の甲子園では、ある儀式が行われます。サイレンの音と共に高校球児や観客が戦没者にささげる1分間の黙とうです。日時こそ違いましたが、この黙とう自体は日中戦争勃発後の1938年大会から始まりました。今年で88回目を迎えた全国高校野球大会は1915年、朝日新聞の主催で始まった歴史があります。
 国内新聞社が経営の安定化と拡大化を意図した商業主義路線を歩み出したのは、「大新聞」が消滅した後の大正時代に入ってからです。その頃、明治以降に海外から輸入された野球や陸上競技など近代スポーツが日本国内で徐々に定着し始め、それが人々に興味を持って観られる対象になりました。そして、スポーツ・ジャーナリズムの分野が誕生し、メディアが積極的にかかわるイベント、メディア・イベントを介したスポーツ報道が盛んになってきました。新聞社の経済的成長を支えた一因が、スポーツ報道と言われています。
 スポーツのメディア・イベントの発端は、大阪毎日新聞が主催した1905年の「大阪湾10マイル競泳大会」だといわれています。これは水泳教室を開いていた大阪毎日と海水浴場までの路線をもっていた南海電鉄のコラボレーションといってよいでしょう。市民のスポーツへの関心を高めると同時に、新聞の拡販運動と企業の広告戦略に結びつきました。

政論活動を運動会の中に包み隠した政論新聞
 明治後期の厳しい言論統制の時代には、スポーツ・イベントが政論活動としての意味合いも持ちました。政府は1901年、治安警察法を制定して、労働者の団結権や罷業権を制限する対策を打ち出しました。こうした中、三井財閥批判や廃娼キャンペーン報道を繰り広げていた二六新報社は同年、第一回日本労働者大懇親会と労働者運動会を同時に開催しました。
 この運動会はその実、弾圧を受けていた自由民権主義者による「壮士運動会」と銘打った政治集会だったのです。ここで繰り広げられた数々の競技名が興味深いので紹介します。競技には、運動会という平和・文化的なイベントに不釣り合いな「圧制棒倒し」「自由の旗奪い合い」「政権争奪騎馬合戦」といった名前が冠されていました。二六新報などの政論新聞は、自らが主催するスポーツ・イベントの中に政治的弾圧を受けていた労働運動を包み隠して報道するという形態で、政論活動を行っていたのです。

野球観を一転させた朝日新聞、商業発展のため
 朝日新聞と野球とのかかわりを紐解くと、興味深い事実に出くわします。朝日新聞は明治後期、紙面上で1カ月にわたり、新渡戸稲造や乃木希典らを動員して、「野球と害毒」と銘打った野球害毒論を展開していました。
 それが1915(大正4)年になると一転して、野球と教育の相互作用を説くようになり、大阪朝日新聞は全国中等学校野球優勝大会(現在の夏の甲子園)を主催したのです。同紙は大会主催にあたって「運動競技界における最も必要なことはよき鞭撻であり、監視であり、更によき指導であるといへよう。・・・積極的に各種の競技を自ら計画し又は後援するようになったのも、この精神から出発したものに外ならぬ」と表明しました。1923年には社会部から運動部を独立させ、同時にスポーツ雑誌『アサヒ・スポーツ』を発行しました。スポーツ・イベントが朝日新聞の商業的発展に大きく寄与したのは、いうまでもありません。

オリンピックを戦争賛美の道具にするマスコミ
 その後、国内スポーツ・ジャーナリズムは発展の一途をたどりました。そして、戦争美化にも利用されてしまいました。1936年、ベルリン五輪の男子マラソンで、朝鮮半島出身の孫基禎選手が優勝、南昇竜選手が3位に入る成績を残しました。同年8月16日付「東京朝日新聞」の社説は「特に忍苦24年のマラソンにおいて半島出身の選手が二人まで勝利の栄冠を戴いたことは、内朝融和の精神的効果においても、極めて意義深く、また甚だ価値高き事象といはなければならない」などと日本の侵略政策を正当化する論調を披露しました。
 一方、抑圧された側の朝鮮紙「東亜日報」は同年8月25日、胸の日の丸を消した孫選手の写真を掲載しました。いわゆる「日の丸抹消事件」といわれている事件で、日本の当局は同紙を無期限の発行禁止処分にしました。
 また、日中戦争に突入していた1938年には、マスコミはスポーツを「国防体育」に変質させてしまいました。毎日新聞の前身、東京日日新聞はこの年、陸・海軍省と国民精神総動員中央連盟などの後援を得て「第一回関東地方青年学校国防体育大会」を開催しました。同紙はこの大会を主催するに当たって紙面上で「待望の日はきた。青年学校教練科の延長たる国防体育運動・・・颯爽として登場した『国防体育』の眞姿を観戦されたい・・・」などと報じました。また、夏の甲子園は「激烈なる列国競争裡」の世界で勝ち抜くための「国民元気の養成」の場となり国家への犠牲的忠誠を象徴するメディア・イベントと変わり果ててしまいました。
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 マスコミの戦争責任を考える(6)
マスコミは「敗戦」をどう伝えたか
  1945年8月15日。日本の敗戦をマスコミはどう伝えたのでしょうか。朝日新聞の一面トップの大見出しにはこうありました。「戦争終結の大詔渙発さる 新爆弾の惨害に大御心 帝国、四国宣言を受諾」。昭和天皇に気遣った表現がうかがえます。そして「再生の道は苛烈 決死・大試煉に打克たん」と見出しが打たれた記事には「事ここにいたつたについては、軍官民それぞれ言分もあらう。だが今はいたづらに批判、相互を傷つけるべき時期ではない」などとつづってありました。政府や自らの戦争責任問題からの逃避ともいえましょうか。
 また、8月23日付同紙の社説「自らを罪するの弁」では「…言論機関の責任は極めて重いものがあるといはねばなるまい」などと一応の戦争責任を認めたうえで「やがて聯合軍から来るべき苛烈な制約の下に我が同胞の意思を如何に伸暢せしめ、その利益を如何に代表すべきか、これこそ今後の我国言論界に課せられた新たなる重大任務である」と続けました。朝日新聞はマスコミ全体の戦争責任を認識しつつも、それに対する償いは、国民の利益を代表する任務としたのです。ここに戦争責任について一度立ち止まるといった態度は見あたりません。朝日新聞にとって、「戦前から戦後の間の断絶」は存在しないのです。
 一方、毎日新聞の8月15日付社説「過去を肝に銘し前途を見よ」では「責任論も国民の念頭を去来せずにはすまないであろう。しかしわれ等はこの際において責任論など試みようとは思はない」と政府や自らの戦争責任を回避することを宣言したのでした。毎日新聞にも戦前と戦後の断絶はありません。当時、日本のマスコミを代表していた朝日新聞と毎日新聞の論調の中には、マスコミ自らの責任を真摯(しんし)に問う態度はありませんでした。むしろ、自らの戦争責任についてをも他人事のように傍観し、身内であった軍部やマスコミ自身の責任を忌避するようなそぶりを見せたのが実情でした。

「戦争責任」。マスコミのけじめの付け方
 マスコミの中には敗戦の日に朝日新聞を退社し、郷里の横手市でミニコミ紙『たいまつ』を発行しつづけたむのたけじ氏や、敗戦の日から数日間、新聞編集を放棄した毎日新聞西部本社の高杉孝二郎編集局長といった人もいました。高杉氏は裏表2ページ建てだった同紙の裏面を白紙のまま発行しました。この理由について高杉氏は「毎日新聞百年史」の中で「昨日まで鬼畜米英を唱え、焦土決戦を叫び続けた同じ編集者の手によって百八十度の大転換するような器用なまねはとうてい良心が許されなかった」と証言しています。むの氏が退社した原因は戦争終結のやり方に不満があった、高杉氏が編集を白紙で発行したのは記事にする情報が無かったという見方もありますが、彼らのように自ら進んで戦争責任を取ったマスコミ人は極少数派です。

「国民と共に立たん」と宣言した朝日新聞
 朝日新聞は敗戦後の1945年11月7日付の紙面で「国民と共に立たん 本社、新陣容で「建設」へ」という宣言を掲載しました。この文章は朝日新聞の論説主幹をつとめ、長年「朝日ジャーナル」の巻頭言を記した森恭三氏によるものです。ここにマスコミの典型的な「けじめのつけ方」を見ましたので全文を記します。
 「支那事変勃発以来、大東亜戦争終結にいたるまで、朝日新聞の果たしたる重要なる役割にかんがみ、我等ここに責任を国民の前に明らかにするとともに、新たなる機構と陣容とをもつて、新日本建設に全力を傾倒せんことを期するものである」
 「今回村山社長、上野取締役会長以下全重役、および編輯総長、同局長、論説両主幹が総辞職するに至つたのは開戦より戦時中を通じ、幾多の制約があつたとはいへ、真実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果たし得ず、またこの制約打破に微力、つひに敗戦にいたり、国民をして事態の進展に無知なるまま今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せんがためである」
 「今後の朝日新聞は全従業員の総意を基調として運営されるべく、常に国民とともに立ち、その声を声とするであらう、いまや狂瀾怒涛の秋、日本民主主義の確立途上来るべき諸々の困難に対し、朝日新聞はあくまで国民の機関たることをここに宣言するものである」
 確かに文章は立派です。ただ、経営陣の総退陣などは、一般企業ではいまどき珍しくも無く、当たり前のことです。企業が不祥事を起こすと、罪が確定していなくても、容疑段階で不祥事を起こした者は懲戒免職になり、経営責任を取らされる企業経営者はごまんといます。それに比べたら、新聞社のオーナー・株主として厳然たる影響力を持ち続けた彼らのけじめのつけ方はいかがなものなのでしょうか。
 このこと以上に、この宣言が出された時期が重要です。なぜ敗戦の8月15日から約3カ月も経て、ようやくこの宣言が掲載されたのでしょうか。次回は、当時の朝日新聞経営陣と労働組合との関係、その背後にあったGHQの影響力について考えていきたいと思います。
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マスコミの戦争責任を考える(7)
戦前から戦後へ「言論統制」と「マスコミ」の連続
戦前は内閣情報局、戦後はGHQと、時代が変わっても言論統制は連続しました。その中で、日本のマスコミも戦争責任を負うことなく連続しました。戦後、日本を支配したGHQが情報統制を目的にマスコミを利用したからです。GHQの民主化政策では、マスメディア政策と労働組合の育成を非常に重視していました。そして、戦時中には政府の言いなりになっていた、あるいは迎合していた日本のマスコミを、進駐してきたGHQは簡単にコントロールできると見透かしていたのです。
 日本の同盟国であったドイツでは、戦時中の新聞社が戦後に引き継がれた例は、ほとんどありませんでした。欧州旧連合国とドイツでは毎年5月8日を、それぞれ「ヨーロッパ戦勝記念日」と「解放の日」として祝います。当然、ドイツのジャーナリズムには戦前と戦後の断絶が存在します。だからこそ、ドイツの新聞は今でも敗戦の年を、戦後ジャーナリズムの「零年」として毎年振り返るのです。この様子はマスコミの報道でもたびたび紹介されています。

GHQの労働組合育成策に後押しされた新聞の民主化運動
 GHQの民主化政策の一環として労働組合の育成がありました。敗戦翌年の46年から47年にかけて労働組合が相次いで結成され、46年の組織率は約40%、組合員数も約400万人にもふくれあがりました。労働組合の育成は新聞社では特に強調されました。
 GHQの占領が始まると、新聞各社では次々に労働組合が結成され、戦時中の経営・編集幹部らへの追及が始まりました。今現在、労働組合でもっとも強い組織力を誇っているのが新聞社や通信社のそれであることからも当時が忍ばれます。
 このころのGHQは「経営・編集幹部=抑圧するファシスト」対「記者=抑圧された労働者」という構図で新聞社内の力関係をうかがっていたようで、過激な労働運動や共産主義化にはあまり注意を払っていないかのようでした。47年から48年にかけて実施された公職追放では「言論著作もしくは行動により好戦的国家主義および侵略の活発なる主唱者たることを明らかにしたる一切の者」に当たるとして、戦時中の新聞社の経営・編集幹部であった351人がその地位を追われました。
 とはいえ、新聞社の持ち分を処分などは行われなかったため、院政を敷くように彼らは新聞社を支配しつづけたのです。GHQはなぜ、それを許したのでしょうか。これは将来的な新聞社の左傾化への懸念があったのかもしれません。

豹変したGHQ。実は「コントロールしやすい側の味方」
 朝日新聞がこの頃のGHQの優等生だったのに対し、GHQの意向に沿わなかったのが読売新聞でした。警察官僚出身の正力松太郎社長が労働組合側の辞任要求を突っぱねたことで45年の年末、「読売報知新聞」では第一次読売争議が起こりました。結局は、GHQは正力社長をA級戦犯に指名するとともに組合側に荷担し、組合の委員長だった鈴木東民氏を編集局長に据えることで決着を促しました。
 ちなみに正力氏はその後、不起訴となり、清濁併せ呑んだ手法で読売新聞の販拡に大きく寄与し、またプロ野球創設にも貢献しました。この手法は現在の読売新聞グループの渡辺恒雄会長にも引き継がれています。
 しかし、その後GHQは次第に新聞の左傾化を警戒する一方、コントロールが容易である新聞経営者寄りの態度を取り始めました。その後、国内言論界のレッドパージにつながっていきました。1950年、朝鮮半島情勢の悪化をきっかけに、GHQは「アカハタ」に対する編集委員ら17人の公職追放や30日間の発行停止を指示、最終的には「アカハタ」やその関連紙一切を無期限に発行停止処分にしました。NHKで119人、朝日新聞で104人など全国50社、計704 人が解雇処分を受けるなどのレッドパージにあいました。

GHQに与えられた「言論の自由」
 GHQは日本に「言論の自由」を約束する一方で、連合国側に不利になるような情報を差し止める検閲などの「言論統制」も同時に行いました。進駐軍は占領開始直後から言論に関するアメとムチの政策を始めたのです。敗戦後1カ月にも満たない1945年9月11日、連合国軍総司令部(GHQ)は「言論及新聞の自由に関する覚書」を発行しました。これは「言論の自由に関する制限は絶対的必要最小限に止むる」一方、「公式に発表されない部隊の動静、又は連合国に関する虚偽若しくは破壊的な批判並びに流言等の論議は許されない」と定められていました。
 その約1週間後の9月19日には、日本の新聞社に与えられた「プレスコード」が発表されました。10項目からなるこのコードは、新聞各社の編集方針に大きな影響を与えました。その中の第二項の「直接たると間接たるとを問わず、公共安寧を紊すような事項を掲載してはならぬ」という文言が非常に曖昧で、各新聞社はその解釈に苦労したといわれています。事実、これはGHQによる言論統制だったのです。戦前の軍部・内閣情報局による言論統制は戦後のGHQにそのまま引き継がれました。

GHQによる言論統制
 英字紙「ニッポンタイムス」の発行停止をきっかけに同年10月9日から、GHQによる日本の新聞の事前検閲が始まりました。しかし、これは長くは続きませんでした。国内情勢が安定化していくにつれ、言論統制は次第に緩和されていったのです。48年7月15日には、検閲は事後検閲に緩められ、49年10月には検閲自体が廃止されました。
 言論統制を解いていくと同時に、GHQは日本の政治家や軍人の戦争責任を問う記事を新聞各社に掲載させることでも、民主化を図りました。GHQは戦争責任を追及する「戦争有罪キャンペーン」記事を45年12月8日から、「連合軍司令部提供」として各紙に掲載させました。
 結局、GHQは「市民=パブリックの味方」ではなく、「コントロールしやすい側の味方」だったのです。当初、GHQはファシスト側にいた新聞経営・編集幹部を放逐し、次に抵抗する労働組合に弾圧をかけ、日本の新聞社の喧伝機関化を進めていったのでした。当たり前のことです、GHQの目的は占領国日本をコントロールすることなのですから。しかも、GHQにしてみれば、日本の新聞社の反発など、そもそも想定内のことだったようです。

なぜ、朝日新聞が「国民と共に立たん」と宣言したのか

 朝日新聞の「国民と共に立たん」という宣言を時期的に検討すれば、GHQの事前検閲を受けたと同時に、労働組合の育成というGHQの民主化政策に乗っかったものであったと見たほうが妥当なのではないでしょうか。GHQの後押しによる労働組合の発言力の亢進が、朝日新聞に「国民と共に立たん」という宣言をさせたのです。宣言の文言の中からもそれが読み取れます。これは朝日新聞に限られたことではありません。実際、他紙も朝日新聞と同じように戦争についての懺悔を繰り返す紙面展開を繰り広げました。
 そのためか、GHQに戦争責任を問われて廃刊となった新聞は一つもありませんでした。戦争賛美の先鋒の国策通信社であった同盟通信でさえ、共同通信と時事通信に分離されただけ、事なきを得ました。これはGHQが占領国日本を統治する上で、戦時に統制されかつ国民を欺くことで有効に機能していたマスコミを利用するのが得策だと判断したからだと考えられています。
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引用・参考文献
・有山輝雄著『「民衆」の時代から「大衆」の時代へ-明治末期から大正期のメディア』(有山輝雄・竹山昭子編『メディア史を学ぶ人のために』第4章)、世界思想社、2004年
・飯田泰三著『批判精神の航跡-近代日本精神史の一稜線』筑摩書房、1997年
・有山輝雄著『総動員体制とメディア』(有山輝雄・竹山昭子編『メディア史を学ぶ人のために』第9章)、世界思想社、2004年
・内川芳美著『マス・メディア法政策史研究』有斐閣、1989年
・佐藤卓己著『現代メディア史』岩波書店、1998年
・佐藤卓己著『言論統制-情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』中公新書、2004年
・川上和久著『情報操作のトリック-その歴史と方法』講談社現代新書、1994年
・佐藤卓己著『メディア社会-現代を読み解く視点』岩波新書、2006年
・田村紀雄・林利隆編『新版ジャーナリズムを学ぶ人のために』世界思想社、1999年
・小田光康著『「スポーツジャーナリスト」という仕事』出版文化社、2005年
・美作太郎・藤田親昌・渡辺潔著『言論の敗北-横浜事件の真実』三一新書、1959年

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※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。

 パブリック・ジャーナリスト 小田 光康
小田光康『ウィキペディア(Wikipedia)』
小田光康(おだ みつやす、1964年 - )は東京都出身のジャーナリスト。PJニュース編集長。
国内外の通信社などを経て、2008年現在、ネット上のパブリック(市民)・メディア、PJニュース編集長。日本国内のパブリック・ジャーナリズム研究・実践の第一人者。
米ジョージア州立大経営大学院修士課程修了(MBA)、東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了(社会情報学)。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了単位取得済(教育学)。早稲田大学スポーツ科学部非常勤講師。
著書に「パブリック・ジャーナリスト宣言。」(朝日新聞社)、「スポーツジャーナリストという仕事」(出版文化社)、共著に「実践ジャーナリスト養成講座」(平凡社)「論争 いま、ジャーナリスト教育」(東大出版会)など。
ライブドア事件では東京地検特捜部のライブドア本社への強制捜査中に堀江貴文社長(当時)への独占インタビューに成功。捜査状況を併せて捜査現場から記事を配信した。フジテレビ系列が起こした「あるある事件」ではマスコミに先駆けて番組の情報漏洩・捏造問題、そしてフジテレビ村上社長(当時)の関与を報じ、辞任に追い込んだ。国内の会計監査問題の英文報道で1998年、米ニューヨーク州公認会計士協会賞と米シルーリアン記者協会賞を受賞。
 
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