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原子力村 |
原子力村(げんしりょくむら、英語:(Japan's) Nuclear Power Village[1])は、日本において原子力技術を用いる産業、特に原子力発電に関係する電力会社、関連企業、プラントメーカー、経済産業省をはじめとする監督官庁、原子力技術に肯定的な大学研究者、マスコミ、業界誌、ヤクザなど原子力関連産業をくくったひとつの呼ばれ方である。
村社会の独特の色彩をもち、利権に群がる排他的利益集団という面を揶揄して「村」がつけられている(同様の〇〇村という表現に「金融村」がある[2])。
この語を改めて定義している例は珍しいが、それによれば[3]、原子力村とは「原発を推進することで互いに利益を得てきた政治家と企業、研究者の集団」を指すとしている。漫画作品「白竜」の「原子力マフィア編」も同様の癒着集団を指している。
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原子力村の歴史 |
志村嘉一郎は1964年に朝日新聞社に入社し、電力、エネルギー、電機業界などを中心に記者生活を送った経験を活かし、『エネルギーフォーラム』の資料を活用して著書を出している。
それによれば元々、「原子力村」とは東京電力社内の隠語であり、戦前からの歴史がある水力、火力部門に対して、戦後創設され当初は人材の層も薄かった原子力部門を揶揄するための言葉だった。
東京電力は原子力発電所建設を進める過程で他部門から人材を募って原子力部門の人材を充実させていったが、反面他部門との人事交流は無く、その過程で原子力部門独特のヒエラルキーを形成した[4]。これが揶揄されるに至った理由であり、経営面では最も会社に協力している反面、原子力部門出身者からは副社長止まりで社長、会長職に就くものは出なかったという。
このような東電の体質は他の電力会社から見ても特殊であり、ロジャー・ゲイルはアメリカの電力会社と比較して原発に精通した人物が少なく、原子力の専門家達が本社から離れた場所に居る旨を指摘しているという[5]。海外の電力会社だけではなく、国内の電力会社からも村社会は指摘されている。志村によれば、『財界展望』1987年9月号では関西電力の社員が東京電力を評して下記の点を指摘し、東電人事部副部長安藤豪敏が同意しており、村社会を形成した点は自覚があったことが示されている[6]。
- 関西電力に比較し規模が2倍であり、原子力部門の他、労務、営業、総務など各部門が村社会を形成している。
- 社長、会長は総務、企画畑出身者が多く、その理由は東電社内でゼネラリストを養成出来たのがこの2部門だけだからであるが、デメリットとして総花的な人物となる。
- 各部門内で上下関係が徹底化したのは24時間無停電で電力供給を継続するための責任感、当該分野の知識に深みを持たせたことも要因にある。
また、『財界展望』での電力会社社員の鼎談によれば「お客様本位」の経営に徹し、オフィスの冷暖房で東京ガスとの競争に勝つため、新設備を理解させるため建設工事を発注している建設会社を本社に「呼びつけて」説明したところ、お客本位の発想と正反対であるため当時会長職にあり、生え抜きの平岩外四が激怒したことがあったという[7]。
東電経営陣から社内の原子力部門が遠ざけられる一方で、原子力部門は社外の原子力産業、関係官庁、研究者達とは親密な関係を築きあげていった。これが、1980年代以降に指摘されるようになった大きな意味での原子力村であるという[8]。
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使用例の歴史
原子力村と言う言葉が用いられた例は1980年頃には既にあり、本来原子力に肯定的な業界誌の一つである『原子力工業』が連載企画「"原子力村"に,議論よ,興れ!」にて、記事名と本文でこのネーミングを使用している例が見られる[9]。
ただし、この連載では立地政策や審査のあり方などについて反対派を招き、また当時の原子力発電所の耐震性などに否定的な者による寄稿といった、反対派から見た原子力村の意味合いに沿った記事もあるが、その一方で当時傍流、ないし開発が進展していなかった軽水炉以外のタイプの原子炉について取り上げたり、日本の原子力発電技術の海外展開について展望を述べる記事など、原子力発電を肯定する立場から見た政策面での反省としての性格を持った記事も含まれている(必ずしも安全性からの観点ばかりではなく、経済的観念も含まれている)。その後、1990年代に論壇誌でも使用された例がある[10]が、反対運動家以外では半ば死語と化していた。しかしながら、2011年3月11日に発生した福島第一原子力発電所事故により、福島県内なかんずく浜通り内を中心として大量の放射性物質が拡散され、浜通りの多くの住民が退去生活を強いられるに至ったことから、マスコミ一般でも批判的な意味合いを含ませて、広く使用例が見られるようになった。原子力に肯定的な論者が全面否定の意味合いでこの言葉を使う例は少ないが、全く無いわけではない。批判者が使用する意味でこの言葉を受容した上で、反省を含めた意味で使用される例もある。
例えば、武田邦彦は原子力を全否定する立場ではないが、「地震で倒れる原発はダメだ」というスタンスも併せ持っており、反対派が使用するような意味を込めて使用している[11]。
また日本原子力研究所出身でヒューマンエラーの研究に従事してきた田辺文也の著書『まやかしの安全の国 ―原子力村からの告発』(2011年)のように、従来村人とされてきた者自身が、外部の批判者が指摘する意味でこの言葉を使用し、激しい内部批判を展開する例も見られる。
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語源に対する異論
ただし、「毎日新聞」は、原子力技術者から撤廃論者に転向した飯田哲也[12]を命名者としている[13]。
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社会構成 |
使用者によって若干の変動はあるが、一例として次のようになっている。
- 学者集落200~300人、民間企業も含め原子力産業の中核になる仕事に携わる人は、数千人[11]
- 原子力工学を学んだ学生が、教授の人脈を通じて原子力関係の仕事に就職することが常態化している[13]。
- 電力会社関係者から政治家に献金が行われる[3]
- 大学等の原子力技術研究機関に電力会社から献金が行われる[3]
- マスコミ関係者を講演会の講師として招聘し、多額の講師料を支払う[3]
挨拶代わりに研究者を原子力施設の見学ツアーに招待する[3]
施設の安全の技術指針を定めた土木学会の委員の半数が電力会社関係者である[3]
核燃料輸送容器などの検査において、関連企業から多額の献金を受けた大学教授が、検査基準を国の基準よりも緩めるよう取り計らう[14]。
また、松浦祥次郎(当時日本原子力研究所副理事長)は1996年、原子力政策円卓会議にて村内には職人の手になる特産品がある旨、比喩的に述べたことがある(この発言を紹介した飯田哲也は非常識と批判した)[10]。 |
補足 |
原子力村は、現実に存在する基礎自治体や集落としての村(村落)を対象としたものではないため、たいていの場合は、「原子力施設が存在する村落」に対して使用されるものではない。特別区、市、町に居住していても、語の使用者が「住民」と見なした場合には、原子力村の「住民」として批判される。
逆に、産業規模や研究開発予算の増減に関係なく、「村」と呼ばれるままであるのも特徴。
ただし、例外もあり、東海村JCO臨界事故をテーマとして東海村住民の生活基盤などに迫った『原子力村』、および開沼博『フクシマ論 原子力ムラはなぜ生まれたか』では、「原子力施設が存在する村落とその住民」を指し、後者ではポストコロニアリズムの一形態として論じている。
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原子力村として指摘された組織 |
東洋経済は2011年4月23日号において、「「ニッポン原子力村」相関図--至る所に東電の影響力」なる記事にて、原子力村に包含される組織の一覧を掲載した。
もっとも、同誌は事故前には「激変するエネルギー 原発ルネサンス到来!!--高まる日本の"地位"」(2007年6月23日号)「日本がリード役
原発三国志」(2007年7月21日号)、「原発ブームで激変、ウラン争奪戦で急騰」(2007年11月24日号)など、下記「原子力村」に対して肯定的な内容の記事を複数発表していた他、1953年の『産業における原子力の応用』を皮切りに2007年の『「青森・東通」と原子力との共栄
: 世界一の原子力平和利用センターの出現』まで、原子力産業を肯定的に扱った書籍を複数出版してきたことを付記しておく。
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ウィキペディアフリー百科事典より |
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